エクラアニマル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/11 04:34 UTC 版)
概要
Aプロダクションの制作管理を経てシンエイ動画のプロデューサーを務めていた真田芳房が1982年12月13日に「有限会社アニマル屋」(あにまるや)[1][2]として設立した。
設立当時のメンバーは福冨博、森脇真琴、本多敏行、木上益治、奈須川充、鈴木信一、徳田悦郎の計7人のシンエイ動画所属の演出家・アニメーターであり、いずれも真田がプロデューサーを務めていた『怪物くん』のスタッフであった。社屋は同年12月に業務拡大のため田無市(現:西東京市)南町へ移転したシンエイ動画の旧社屋を譲り受けたものである。よって、事実上シンエイ動画の『怪物くん』制作班が残留したものともいえる。
独立後もシンエイ動画とは円満な関係が続き、同社作品を中心にグロス請けしていた。この他、東京ムービー、土田プロダクション(及び実質的後継であるスタジオコメット[3])、グループ・タックを主な取引先とした。
上田トシコ原作『フイチンさん』、ちばてつや原作『風のように』、『キャラ丸くんとドク丸くんシリーズ』、『かっぱのすりばち』、『さくらとサクリン』、松本かつぢ原作『くるくるクルミちゃん』、『KABUTO武士シリーズ』など、自主制作作品も手掛けている。
過去には所属していた木上益治等がプロレスファンであったことから[4]「肉体派アニメーター」を自称し、旧あにまる屋時代からスタジオにトレーニング場を設け、ダンベルやバーベルなどボディビルの器具が設置されているという異色のスタジオであった[5][6][7]。入社の基準も40キロのバーベルを持ち上げられることになっていた[8]。本多のAプロ時代の同僚である近藤喜文がテレコム・アニメーションフィルムを退社した際、細身であった氏を招こうと、バーベルの基準を大幅に下げることを考えていたという逸話がある[8]。
1987年12月、真田芳房が肝硬変のため慰安旅行先の草津温泉で客死し、本多敏行が二代目代表取締役となった。会社で入っていた生命保険は遺族の意向で絵本の自費出版資金となり、木上益治が中心となって『小さなジャムとゴブリンのオップ』を製作し[9]、関係者に配布された。同書の登場人物であるジャムはそのままあにまる屋のマスコットキャラクターとなったほか、社内でアニメを自主制作する機運が高まったきっかけになった。
また、本多が代表に就任してからは、ワーナーのTVシリーズ『フリーカゾイド!』のオープニング映像・ハンナバーバラの『パワーパフガールズ』のパイロット版、ディズニー作品の制作に参加するなど、日米合作制作に力を入れている。
2007年、「株式会社エクラアニマル」を設立し業務を継承。制作プロデューサーの豊永ひとみが代表取締役に就任した。この頃からアニメ制作のかたわら、エコキャップの回収・献血の推進運動・地域の清掃活動・環境保護活動・地域のイベント企画などの市民活動にも力を入れている。また、TVアニメ制作以外に企業CM制作・ブライダルアニメ制作・絵本制作・マンガ制作活動にも積極的に取り組んでいる。
- ^ 有限会社アニマル屋 法人番号 7012702005178 2017年1月30日法人格消滅
- ^ リスト制ニメージュ アニメポケットデータ2000』徳間書店、2000年、p.78
- ^ データ原口「STUDIO スタジオコメット」『アニメージュ』1981年8月号、徳間書店、p119。
- ^ 「師匠」京アニ取締役木上益治さん功績の声相次ぐ日刊スポーツ2019年8月3日
- ^ 岡田斗司夫、山本弘、大地丙太郎「アニメ業界徹底大研究」『空前絶後のオタク座談会1 ヨイコ』音楽専科社、2001年、pp.281-282
- ^ 岡田斗司夫、山本弘、原恵一「オトナ帝国徹底大研究」『空前絶後のオタク座談会2 ナカヨシ』音楽専科社、2002年、p.216.
- ^ 『アニメージュ』1981年6月号、徳間書店、p.103
- ^ a b 片渕須直「β運動の岸辺で 第42回 道はあちこちにある」 WEBアニメスタイル 2010年8月2日
- ^ 《京アニ放火》犠牲になった天才アニメーターの人生と、残された絵本に宿る思い 週刊女性PRIME(2019年10月13日閲覧)
- ^ 惑星アトン外伝|NETWORK租税史料|税務大学校|国税庁
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