ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)
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人物・評価
首相時代の事績より第2次ニューカッスル公爵内閣期の七年戦争の戦争指導によって高い評価を得ている。この戦争の勝利でイギリスは北アメリカとインド亜大陸からフランスを追って覇権を構築し、世界最大の植民地帝国大英帝国を建設する基礎を築いたからである[54]。
平民出身のピットは「国民の声を聞け」と国王に要求して国王から煙たがられた[55]。国王や貴族を侮蔑して憚らず、ジョージ3世やニューカッスル公に公然と盾突いた。そのためジョージ3世はピットのことを「反逆のラッパ」と渾名した[23]。長く平民・庶民院議員で通したため、「偉大な平民」と呼ばれて尊敬された(その反動で1766年にチャタム伯爵位を受けた際には批判に晒された)[56]。
彼の行動理念は政党・党派を否定して「愛国王」(初代ボリングブルック子爵ヘンリー・シンジョンの概念)ならぬ「愛国首相」になることであった。第4代オーフォード伯爵ホレス・ウォルポールは「できる限りあらゆる陣営から優秀な人材を引きぬいて、全ての政党を瓦解させることがチャタムの年来の意図であった」と述べている[57]。ルイス・バーンスタイン・ネイミアは「チャタムは孤独な人間だった。自分と世間の間に垣根を設けていて少数の者にしかそれを越すことを許さなかった」と論じており、彼が政党政治家になりたがらなかったのは、この孤独な性格に起因していたとも言われる[57]。サミュエル・ジョンソンは「ウォルポールは王から国民に与えられた首相だったが、ピットは国民から王に与えられた首相だった」と評したと言われている[58]。
雄弁家だったといわれ、同時代の第2代ウォルドグレイヴ伯爵ジェイムズ・ウォルドグレイヴはピットについて「彼は独特の明晰で流麗な表現力をもっている。そして完成された雄弁家であり、庶民院をいつも興奮させたり、魅了したりしている。彼は冷静で猛烈に積極的に慎重に対処するという、あらゆる素質を備えている。彼は現代人民の指導者であり、代表選手である。しかし愛国者のマスクの下に暴君の専制的精神を秘めている」と評している[59]。しかし手紙を書くのは苦手だったとされ、「弁舌は当代随一、だが手紙を書かせたら当代最悪」との評価も残る[60]。
文芸の知識は乏しかったが、デモステネスとボリングブルック子爵の著書だけは目を通したという[8]
- ^ Lundy, Darryl. “Robert Pitt” (英語). thepeerage.com. 2014年10月7日閲覧。
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- ^ a b c d e f g h i j k l Lundy, Darryl. “William Pitt, 1st Earl of Chatham” (英語). thepeerage.com. 2014年10月7日閲覧。
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- ^ a b c d 世界伝記大事典(1981)世界編8巻 p.148
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- ^ Hugh Chisholm. "Chatham, Earl of" entry The Encyclopædia Britannica: A Dictionary of Arts, Sciences, Literature and General Information, 11th ed., (London: University press, 1910)
- ^ 小松(1983) p.172
- ^ 小林(1999) p.61-63
- ^ Heraldic Media Limited. “Chatham, Earl of (GB, 1766 - 1835)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2019年1月28日閲覧。
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