イェヴヘーン・コノヴァーレツ 死

イェヴヘーン・コノヴァーレツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/22 15:43 UTC 版)

1938年5月23日、月曜日の朝、オランダロッテルダムでは雨が降ったが、正午までに天気は回復した。スドプラートフによれば、この日は「晴れて暖かい日であった」という。この日、スドプラートフは、ロッテルダムにある「ホテル・アトランタオランダ語版」でコノヴァーレツと会うことになっていた。ホテル内にある飲食店にいた給仕は、イェヴヘーン・コノヴァーレツが一人で店にいたことを憶えていた。コノヴァレーツは窓際の席に座っており、シェリー酒を一杯注文した[28]。午後12時ちょうど[27]、店に別の客が入り、シェリー酒を飲んでいたコノヴァーレツが座っている席へと向かった。給仕がその客に近付くと、この人物はビールを一杯注文した。その際、この人物はその場に屈み込んで(相手に顔に覚えられるのを防ぐために)靴紐を直していた。給仕はこの人物の特徴を覚えており、それによれば、年齢は30 - 35歳、身長は170 - 180cm、自信に満ちた様子であったという。整った服装で、髭をきれいに剃っており、髪の色は暗褐色、濃い眉毛、焦茶の瞳で、訛りが少しあるドイツ語を喋っていたという[28]。コノヴァーレツと初めて出会う前のスドプラートフにはドイツ語を学んでいた時期がある[27]

コノヴァーレツに会った際の様子について、スドプラートフは以下のように回想している。

「私はレストランに入り、彼の隣に座り、短い会話のあと、今日の午後5時にロッテルダムの中心部で再会する約束を交わしました。私は彼にチョコレートの入った贈り物に偽装した箱を渡し、すぐに船に戻らなければなりません、と伝えました。そこから立ち去る際、私は例の箱を彼の隣の卓に置きました。彼と握手を交わしたのち、今すぐにここから走り去りたいという本能的な欲求を抑えながら立ち去りました」[23]

スドプラートフは急いでビールの代金を支払い、コノヴァーレツに別れを告げてホテルから立ち去っていった[23]。ホテルを出たスドプラートフは、両側にたくさんの店が並ぶ脇道に入った。最初に目に留まった紳士服店に入り、薄手の外套と鍔のついたハットを購入した。コノヴァーレツも支払いを終えてホテルを出発した。コノヴァーレツはロッテルダムの中心街に入り、午後12時15分ごろ、映画館「ルミエール」(Lumière)の前で立ち止まった。そのとき、大きな煙が数メートルの高度まで急速に立ち上っていく様子を数人が目撃し、次の瞬間、空中で重砲の砲弾の炸裂を思わせる、短く、乾いた爆発音が轟いた。この爆発音について、スドプラートフは「タイヤの破裂音を思わせる音」と表現した[23]。スドプラートフは、「歩道に沿って、大佐と別れた方向に向かって群衆が走っていくのが見えた」と語った。スドプラートフによれば、爆破装置が作動したことには気付いたが、コノヴァーレツが死んだのかどうかについては、この時点ではまだ分からなかったという。

コノヴァーレツの持っていた旅行鞄は粉々になり、コノヴァーレツの腕と足が千切れ、血まみれの胴体が歩道から吹き飛んだ[28]。爆発の直後、ガラスが激しく砕け散る音が響き渡り、窓ガラスの破片が四方から通りに向かって降り注いだ[28]。警察、消防車、救急車が現場に到着した。死亡者の遺体と負傷者は近くの市立病院に搬送された。警察はただちに現場近辺の通りを封鎖し、事件の捜査を開始し、コノヴァーレツの所持品の残骸が回収された。警察は、旅券と、ホテル「セントラル」の名刺を発見し、被害者が貿易会社の取締役でリトアニア人の「ヨゼフ・ノヴァーク」と名乗っていた事実も突き止めた。警察は報道機関に対する情報公開を拒否した。この爆発事件から二時間後、一人の外国人が「セントラル」を訪れ、ヨゼフ・ノヴァークについて尋ねた。しかし、警察は、ノヴァークを捜している者は即刻逮捕するよう措置を講じており、この人物は警察署に連行された。この人物はチェコスロヴァキア人の「ヴラディスラフ・ボル」と名乗った。警察はすぐに、ボルの持っていた旅券が別人のものであると断定した。貼られていた写真は別人のものであった。警察はこの人物を丸一日拘留したが、何の成果も得られなかった。火曜日の夕方、警察が「ノヴァーク」の遺体を見せたとき、彼は「これはウクライナ民族主義者組織の指導者、イェヴヘーン・コノヴァーレツ大佐だ!」と叫んだ[28]。この人物は、コノヴァーレツの腹心、ヤロスラフ・ヴォロディミロヴィチ・バラノウスキーウクライナ語版であった[29]。警察が、「ヨゼフ・ノヴァーク」が泊まっていたホテル「セントラル」の客室を捜索したところ、ウクライナ語のタイプライター、ウクライナ語で書かれた反ボリシェヴィキの文書が入った旅行鞄、テーブルの上に置かれた小さな黒い十字架を発見した[29]。警察はバラノウスキーを伴い、ロッテルダム港に停泊中の全てのソ連船を捜索し、スドプラートフを見付け出そうとした。

作戦が失敗に終わり、敵に捕獲されそうになった場合、スドプラートフは、シュピーゲリグラスから「男らしく行動するように」との指示を受けていたが、これは「死ね」という命令であった[23]。スドプラートフは「いかなる状況に陥ろうとも、私は敵の手に落ちるつもりは無い」「いつでも自殺できるようにしておく」と語っていた。スドプラートフが貨物汽船「シルカ号」に乗ってソ連を出国する前夜、シュピーゲリグラスは彼と8時間に亘って話し合った。シュピーゲリグラスは西ヨーロッパ全土において有効期限が二カ月間の季節列車の切符、チェコスロヴァキアの偽のパスポート、3000ドルを渡し、「建物から出たあと、近くの店で外套と帽子を買って身だしなみを整えるように」と助言した[23]。スドプラートフは逃走経路を事前に調べていた。スドプラートフはシルカ号の無線通信士を装ってオランダに入国した[27]。ロッテルダムに上陸する前、スドプラートフは船の船長に対し、午後4時までに自分が船に戻ってこなかった場合、そのまま航海に出るよう伝えた。爆破装置の作成者であるアレクサンドル・ティマシュコフはスドプラートフの旅に同行し、出発の10分前に爆破装置を装填し、シルカ号に残った[23]。捜査官は、コノヴァーレツがシルカ号の無線通信士と会っていたことを知ったが、「シルカ号」はすでに出港していた。スドプラートフは、偽造されたチェコスロバヴァキアの旅券を持ってパリに入国していた[27]。ヤロスラフ・パラノウスキーは、コノヴァーレツが1938年5月23日当日に急使の無線操縦士に会う予定である趣旨を告げられたが、その人物がスドプラートフであったのかどうかについては確信が持てなかったという。


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