米・塩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/05 01:38 UTC 版)
瀬戸内側を中心に沿岸を大規模に干拓して新田・塩田の開発が行われた。長州(山口)では干拓によって耕地を造成する事を開作と呼び、藩が行うものを「公儀開作」、家臣が行うものを「拝領開作」、農民が行うものを「自力開作」、寺社が行うものを「寺社鋪(じしゃしき)開作」としていた。 中興の祖とも呼ばれる第7代藩主・毛利重就は、新田・塩田の開発に加えて交易港の整備を進めた。現在の山口県防府市である三田尻では、防長2ヶ国の製塩の半分を占める規模(塩業者201軒、塩の生産36万石)に達する程になり、播磨国赤穂に次ぐ国内第2位の大製塩地となった。この頃には廻船業が発達して西廻り航路(北前船)により、長州藩の塩は山陰・北陸・東北(さらに1800年(寛政12年)頃には北海道の函館や小樽にまで出荷されていた)にまで運ばれていた。江戸時代後期の時点で塩の自給自足ができていたのは全国68ヵ国のうち8ヵ国と言われ、塩の専売は長州藩の貴重な財源であった。
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