放伐とは? わかりやすく解説

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ほう‐ばつ〔ハウ‐〕【放伐】

読み方:ほうばつ

中国における易姓(えきせい)革命観に基づく君主交代の一形式君主が徳を失って悪政行ったとき、他の者が武力追放し代わりにその位に就くこと。→禅譲(ぜんじょう)


放伐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/01 06:17 UTC 版)

放伐(ほうばつ)とは、中国史において、暴君暗君を討伐して都から追放するという行為をさす。湯王武王のような、次の天子となるべき有徳の諸侯が行った。

概要

史記』などによれば、三皇五帝の時代には、天子の位は世襲ではなく有徳な君主が有徳な人物に譲った(禅譲)とされる。しかしの時代にいたって世襲制度になった。その世襲の王朝が交替する際に、放伐がなされるようになった。

王朝の末期に、湯王が夏の暴君王を放伐したのが最初であるとされる。ただし夏王朝の実在性については、未だ議論の最中であり、確定はしていない。歴史上明らかな放伐の最初は、王朝の末期に、武王が殷の暴君紂王を討った事例である。

湯王と武王の故事に由来するので湯武放伐(とうぶほうばつ)ともいう。その名の通り、その後の中国史においては、放伐の事例はあまり見られない。実質上は明らかな放伐であっても禅譲の形式を踏んだり、漢民族以外の異民族の侵入によって王朝の交替がなされた。

湯武放伐は、暴君を討伐して民を救うという英雄的な行為である。しかし同時に、「主君殺し」すなわち「下剋上」「弑逆」にあたる行為でもあり、儒教の教義である「」「名分」と競合してしまう。そのため、湯武放伐の当否は、後世の儒者たちの議論の的になってきた。

  • 孟子』 - 放伐を肯定。紂王は仁をそこない義を破ったため、もはや主君ではなく「一夫」(ただの男)になったとして、主君殺しの罪に当たらないとした[1]
  • 古学山県大弐 - 放伐を肯定。
  • 山崎闇斎 - 放伐を否定。湯王・武王よりも、文王のような「忠」を貫く態度を支持した[2][3]
  • 上田秋成 - 放伐を否定。国学者の立場から『雨月物語』巻一「白峯」において、孟子の放伐肯定に対し、否定論を記述している

関連項目

出典

  1. ^ ウィキソースには、孟子/梁惠王下の原文があります。
  2. ^ 市来津由彦 (1999). “山崎闇斎編『拘幽操』における朱熹説理解について”. 広島大学 東洋古典学研究. https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/ja/00025414. 
  3. ^ 谷口眞子 (2016). “近世中期の日本における忠義の観念について -山崎闇斎学派を中心に-”. 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌. https://hdl.handle.net/2065/00051793. 



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