IWAの発展と実情
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「第一インターナショナル」の記事における「IWAの発展と実情」の解説
IWAはブリュッセル大会時にその勢力は最盛期に達していた。 IWAは各地の労働闘争を支援し、闘争のたびに支部の設置が進展して、会員も増加していった。同大会の参加団体も最多となっていた。しかし、会費徴収や組織運営に難があり、財政的には厳しい戦いを強いられていた。1870年の会員数は主要国で以下の通り、フランスで43万3000人、ドイツで15万人、オーストリアで10万人、ブリテンで8万人、スイスで4万5000人といった状況であった。しかし、フランスでは逆風が吹いていた。フランスではIWAが非合法化され、1870年までにヴァルランなどの主要な活動家が次々と逮捕されるなど厳しい弾圧を受けた。各国で迫害がなされるなかIWAは力強い発展を遂げていた。その発展の中心はドイツとアメリカであった。アメリカでは短期間ながらも「全国労働改革党」が発足した。 一方、ドイツでは1867年ヴィルヘルム・リープクネヒト、アウグスト・ベーベルがザクセン人民党を組織し、1869年8月にはドイツ統一の加速と歩調を合わせるかたちでリッティングハウゼン、ベルンヘルト・ベッカー(ドイツ語版)、ヘスといった人物らとともにアイゼナハ綱領(ドイツ語版)を採択、社会民主労働者党(ドイツ語版)(独: Sozialdemokratische Arbeiterpartei (SDAP) 。通称「アイゼナハ派」と呼ばれる。後のドイツ社会民主党の母体となる)」を組織した。ラッサール主義に対峙する本格的なマルクス派の社会主義政党が発足したのである。 「リープクネヒト」、「ベーベル」、および「ドイツ社会民主党」も参照
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