30代 ─画家としての自立とは? わかりやすく解説

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30代 ─画家としての自立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/03 05:41 UTC 版)

吉川霊華」の記事における「30代 ─画家としての自立」の解説

明治39年1906年松原佐久養子赴任地豊橋移住する際、冷泉為恭粉本譲り受けた翌年国画玉成会評議員選出される明治44年1911年第5回文展に「菩提達磨」(関東大震災焼失)を初出品して褒状を受ける。一部にこの作品高く評価する声もあったが、以後離騒」までの15年官展には出品しなかった。その理由については、大正4年1915年)に掲載された「文展日本画」で想像することが出来る。ここで霊は、文展芸術上の多く主義主張極めて自由放任的に包容する使命をもっているべきであるのに、それが正当に行われておらず、実際に審査員趣向適った一部常連や、「文展式」なる絵画様式ができている。文展入場者が多く新聞にも連日取り上げられ盛況呈してはいるが、投機心のある画家はこの機会利用し自己の広告場に応用する結果衆愚幻惑せんがために「展覧会画」なる俗悪な作物出来上がるこうした作品が、世間評判取り賞でも取ると、翌年にはこれの模倣作大量に出て文展益々俗臭芬々となる。世間の受けは更に良くなるが、良心ある作家は余計遠ざかる、などと無所属無党派立場から激しく批判し授賞廃止審査員交代主張したこうした文展状況と、自己の芸術的理想との乖離が、官展出品しなかった要因だと思われる私生活では、大正2年1913年当時親しくしていた南画家松林桂月紹介で、その妻・松林雪貞遠縁女性と結婚。ここでも霊持ち前の気の長さ発揮し周囲やきもきさせている。翌年、父が亡くなるが、その遺産書籍美術品収集し、更に研究深めていった。

※この「30代 ─画家としての自立」の解説は、「吉川霊華」の解説の一部です。
「30代 ─画家としての自立」を含む「吉川霊華」の記事については、「吉川霊華」の概要を参照ください。

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