30代 ─画家としての自立
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「吉川霊華」の記事における「30代 ─画家としての自立」の解説
明治39年(1906年)松原佐久が養子の赴任地豊橋に移住する際、冷泉為恭の粉本を譲り受けた。翌年、国画玉成会の評議員に選出される。明治44年(1911年)第5回文展に「菩提達磨」(関東大震災で焼失)を初出品して褒状を受ける。一部にこの作品を高く評価する声もあったが、以後「離騒」までの15年間官展には出品しなかった。その理由については、大正4年(1915年)に掲載された「文展の日本画」で想像することが出来る。ここで霊華は、文展は芸術上の多くの主義主張を極めて自由放任的に包容する使命をもっているべきであるのに、それが正当に行われておらず、実際には審査員の趣向に適った一部の常連や、「文展式」なる絵画様式ができている。文展は入場者が多く、新聞にも連日取り上げられ盛況を呈してはいるが、投機心のある画家はこの機会を利用し、自己の広告場に応用する。結果、衆愚を幻惑せんがために「展覧会画」なる俗悪な作物が出来上がる。こうした作品が、世間の評判を取り賞でも取ると、翌年にはこれの模倣作が大量に出て、文展は益々俗臭芬々となる。世間の受けは更に良くなるが、良心ある作家は余計遠ざかる、などと無所属・無党派の立場から激しく批判し、授賞の廃止や審査員の交代を主張した。こうした文展の状況と、自己の芸術的理想との乖離が、官展へ出品しなかった要因だと思われる。 私生活では、大正2年(1913年)当時親しくしていた南画家・松林桂月の紹介で、その妻・松林雪貞の遠縁の女性と結婚。ここでも霊華は持ち前の気の長さを発揮し、周囲をやきもきさせている。翌年、父が亡くなるが、その遺産で書籍や美術品を収集し、更に研究を深めていった。
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