2011年エジプト革命
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「タハリール広場」の記事における「2011年エジプト革命」の解説
「アラブの春」および「エジプト革命 (2011年)」も参照 2010年12月17日、チュニジアで露店商を営んでいた26歳の青年であるムハンマド・ブーアズィーズィーが、自らを侮辱した警察に抗議するために焼身自殺を行った。当時のザイン・アル=アービディーン・ベン・アリー政権において不公平感を抱いていた人々は彼に共感してベン・アリー大統領の辞任運動を始めた。1か月後、ベン・アリーはサウジアラビアに亡命し、政権は崩壊した。 チュニジアでの革命の成功に後押しされ、エジプトにおいても、インターネットで結成された「4月6日運動」「我らは皆ハーリド・サイード」などの民主化運動が2011年1月25日にムバーラクの辞任を求めるデモの実施を決めた。デモはタハリール広場で実施されることが決まった。
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2011年エジプト革命
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「ムハンマド・フセイン・タンターウィー」の記事における「2011年エジプト革命」の解説
2011年1月に入ってムバーラク政権に対する反政府デモが拡大し、エジプトは騒乱状態となった(エジプト革命)。1月29日、ムバーラクはアフマド・ナズィーフ首相を更迭してアフマド・シャフィークを後任の首相に任命し、政権の支持回復を目論んだ。タンタウィは1月31日のシャフィーク内閣発足により、国防・軍需生産大臣だけでなく副首相も兼任することになった。しかし、ムバーラクに対する退陣要求は内閣改造後もさらに過熱していった。騒乱に対応するため、軍高官からなるエジプト軍最高評議会が招集され、タンタウィが評議会の議長を務めることになった。 2月10日、タンターウィーら最高評議会のメンバーは、ムバーラクを抜きにして協議を開始し、「国民を守るための協議を続けている」と発表した。軍がムバーラク政権と距離をとり、民衆側に歩み寄りを見せることで事態の収拾を図ろうとしたのである。しかし同日、ムバーラクは即時辞任を否定したことから、翌日も国民のデモは収まらなかった。 2月11日、最高評議会は民主化を確約する声明を再度表明した。同日、ムバーラクは政権維持をあきらめ、タンタウィが議長を務める軍最高評議会に権限を移譲し、自らは退陣した。 ムバーラクは大統領府を去り、副大統領のオマル・スレイマーンがムバーラクの退任と最高評議会への権限の委譲を発表した。これにより、タンターウィーは軍最高評議会議長として国家元首代行となった。この間、アメリカ合衆国の国防長官であるロバート・ゲーツと電話会談と重ね、軍部がムバーラクを支持していないことを伝えたとされる。 2012年エジプト大統領選挙当選者のムハンマド・ムルシーが6月30日に大統領に就任したことに伴い、国家元首代行を退任した。 ムルシー政権下で2012年8月に発足したヒシャーム・カンディール内閣でも引き続き国防大臣となったが、2012年8月12日、ムルシー大統領により国防大臣及び軍最高評議会議長を解任され、大統領顧問となった。解任にともない、ムルシー大統領からエジプト最高の勲章であるナイル勲章を授与された。2021年9月21日、首都カイロにある病院で85歳で死去。
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