2度目の衝突
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/26 06:00 UTC 版)
「ハールィチ・ヴォルィーニ戦争」の記事における「2度目の衝突」の解説
1348年にストレーヴァの戦い(英語版)でリトアニア人がドイツ騎士団に敗れた後、リュバルタスはヴォルィーニ東部とルーツィク以外の全ての領土をカジミェシュ3世とその同盟者であるハンガリー王ラヨシュ1世に奪われた(カジミェシュ3世が男子を残さない場合は、この地域は甥であるラヨシュ1世が相続することも取り決められた)。リュバルタスの2人の兄アルギルダスとケーストゥティスは、ポーランドと赤ルテニア(ハールィチ東部)への遠征軍を何度か組織した。 この時期、リトアニアはロシアとの同盟関係を築いていた。リュバルタスはモスクワの支配者セミョンの親族であるロストフ公コンスタンティンの娘と再婚し、兄のアルギルダスもセミョンの妻の妹であるトヴェリの公女ウリヤナ(英語版)を2番目の妻に迎えた。1351年の春、リュバルタスはラヨシュ1世に捕えられたが、ケーストゥティスがラヨシュ1世と休戦協定を結んだおかげで夏には解放された。ところが情勢は悪化し、翌1352年には再度の軍事的衝突が始まった。この時の休戦協定は同年の秋に結ばれたが、リトアニア人に有利なものとなった。リュバルタスはヴォルィーニとポジーリャ(ポドレ)だけでなく、ベルズとヘウムをも獲得したのである。 それでも満足しないリュバルタスは、翌1353年に再び攻撃を仕掛けた。これに対する報復として、カジミェシュ3世は教皇インノケンティウス6世の特別の許可を得て、リトアニアの異教徒討伐の名目で大規模な遠征軍を組織した。しかしカジミェシュ3世はこの遠征でも期待した成果を上げられず、リトアニア人との同盟を考えるようになった。 1366年、カジミェシュ3世はマゾフシェ公シェモヴィト3世(英語版)(ボレスワフ・ユーリー2世の弟)やリュバルタスの甥達などの同盟者を得て、戦争を再開した。この時、アルギルダスは東部での紛争に巻き込まれ、ケーストゥティスはドイツ騎士団との戦いに忙殺されていたため、孤立無援のリュバルタスは敗北した。1366年の秋に和平条約が結ばれ、リュバルタスは以前のヴォルィーニ東部とルーツィクのみの領有を認められ、ポーランドへの一定度の従属を余儀なくされた。また、ポーランドとリトアニアの問題に関しては中立を維持することも約束させられた。カジミェシュ3世は同盟者であるリュバルタスの甥達に報償を出した。カリヨタスの息子ユーリーはヘウムを与えられ、もう一人の息子アレクサンドルはヴォロディームィル=ヴォルィーンシキーを入手した。ナリマンタスの息子ユーリーはベルズの支配権を安堵された。
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