2度目の航海
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詳細は「ビーグル号の2度目の航海」および「チャールズ・ダーウィン#ビーグル号航海」を参照 当初はチャンタクリアーが2度目の南米調査を行う予定であったが、船の状態が悪かったためビーグル号がその代わりとなった。ロバート・フィッツロイは宣教師として訓練したフエゴ島民をどのように帰すかを考えていた。1831年6月25日、彼は再び指揮官に任命された。1831年7月4日、ビーグル号はフィッツロイ船長の指揮の下に就役した。 ビーグル号はすぐにドック入りし大規模な改装が行われた。新しい甲板が必要であったので、フィッツロイは上甲板をかなり、船尾は200mm、前は300mm上げた。チェロキー級の船は沈みやすいといわれていた。甲板を水がふちに集まらず速やかに排水されるように改装したことで、ビーグル号は扱いやすくなり、またトップヘビーになって転覆する可能性も減少した。追加の覆いも船体に追加され、排水量は約7トン増加した。フィッツロイは費用を惜しまず、22個のクロノメーターや5種類の気圧計などを搭載した。 ストークスの運命や自殺した彼のおじのことを自戒し、フィッツロイは当時船長という孤独な地位について苦慮していた。同行者を得ようとした試みは初めは失敗し、彼はフランシス・ボーフォートに仲間になってくれる博物学者を探してくれるよう頼んだ。そうして、チャールズ・ダーウィンが同乗することになった。 ビーグル号は1831年10月24日に出港する予定であったが準備の遅れのために出発は12月になった。12月10日に出港しようとしたが悪天候にあい、結局ポーツマスを出港したのは12月27日の午後2時であった。南米での調査終了後ビーグル号はニュージーランド経由で1836年10月2日にコーンウォール州のファルマスに帰還した。
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