1950-1957
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/18 05:11 UTC 版)
「ランブラー (自動車)」の記事における「1950-1957」の解説
チャールズ・ナッシュの後継者ジョージ・W・メイソンの指揮の下、ナッシュ=ケルビネーターでは第二次世界大戦の終戦直後、戦後の経済を反映した、低コストで生産可能な小型車(スモールカー)の開発を開始した。 しかし、ナッシュが手に入れられる鉄鋼には限りがあることがわかり、メイソンは方針を変えた。ランブラーと名づけられた2ドアセダンにはコンバーチブルトップを載せ、さらに通常はオプション品とする装備を標準装備とすることで利益最大化を図った。 1950年に発売されたランブラーはほどなく人気車となった。朝鮮戦争に絡んで鋼割当量が増え、ランブラーシリーズは4ドアセダンやステーションワゴンへとモデルタイプを増やし、価格帯の幅も広げた。2ドアセダンコンバーチブルはこの種のボディの第一世代となり、人気を博した。 自社の往年のブランドをリバイバルさせた現代型ランブラー第一世代は、先行開発されたフルサイズ車であるナッシュ・エアフライトのスタイルに準拠しつつ小型化したような車両で、同様にホイールハウス(英:wheel openings)を閉じたデザインとした。ホイールハウスは自動車にとって空力抵抗の原因の一つだったが、ナッシュ流にこれをカバーしたデザインの第一の理由は「車両衝突時の強度が増す」というより実用技術的なものだった。この「スカーテッドフェンダー」はステアリング切れ角を制約するため、車が曲がりにくくなると考える人も多かったが、これを補う見地もあって一般の車両よりも前輪間隔が狭くされたため、実用上の問題はなかった。ランブラーでは1955年までこのスタイルだったが、その後の定期的なデザイン見直しで、前輪は覆われなくなった。 1954年、ナッシュ=ケルビネーターとハドソンが合併し、存続会社名はアメリカンモーターズ(AMC)となった。合併につづいて、ランブラーはナッシュとハドソンと同じバッジエンジニアリング車となり、どの車も見た目での違いがなくなった。ナッシュとハドソンは1957年で終了し、AMCの車種はランブラーのみとなった。例外は1958年から1962年まで輸入販売されたナッシュメトロポリタンのみであった。
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