1945年3月 アルトダム橋頭堡防衛戦
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「ジャック・ルロア」の記事における「1945年3月 アルトダム橋頭堡防衛戦」の解説
1945年3月12日、「ヴァロニェン」師団の生存者の中で戦闘継続を希望した者から成る1個大隊規模の戦闘団が、「ザ・ボス」 (Der Boss) の異名を持つアンリ・デリクスSS大尉 (SS-Hstuf. Henri Derriks) を指揮官として結成された。この時、ジャック・ルロアSS少尉はデリクスSS大尉の呼びかけに応じて「デリクス」戦闘団 (Kampfgruppe Derriks) に志願し、アンドレ・レジボSS少尉 (SS-Ustuf. André Régibeau) が指揮を執る第1中隊の第3小隊に配属された。 3月15日、ルロアは戦闘継続を拒んだ弟クロード・ルロア (Claude Leroy) に腹を立て、彼に平手打ちを食らわせた(その後、クロードは前線での戦闘に参加した)。 そして、3月16日から19日にかけて繰り広げられたシュテッティン近郊のアルトダム(Altdamm、現ドンビエDąbie)橋頭堡防衛戦において、短機関銃を手にした隻眼隻腕のルロアSS少尉は、負傷した2名の小隊長に代わって第1中隊第3小隊を指揮し、ローゼンガルテン (Rosengarten) - フィンケンヴァルデ (Finkenwalde) 間において72時間に渡ってソビエト赤軍の突破を阻止した(3日間の戦闘でルロアの小隊はT-34戦車を数輌撃破した)。この時のルロアの英雄的な防衛戦闘に対し、「ヴァロニェン」師団長レオン・デグレルSS中佐はルロアを騎士鉄十字章受章候補に推薦した。 しかし、アルトダム橋頭堡防衛戦の最中にルロアの弟クロードは戦死していた。これ以上戦いたくないという弟に暴力を振るって戦闘に参加させ、結果として彼を死なせてしまったことでルロアは自責の念に生涯苛まれ続けた。
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