1933年 - 1939年:音楽的発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/14 16:35 UTC 版)
「ジェラルド・フィンジ」の記事における「1933年 - 1939年:音楽的発展」の解説
フィンジはロンドンでは気が休まらず、画家のジョイス・ブラック(愛称ジョイ)と結婚してから、バークシャーのオルドボーン(Aldbourne)に落ち着いた。オルドボーンでは作曲活動とリンゴの栽培に専念し、絶滅の危機にあるイングランドの多数の品種のリンゴを保存した。また、約3000点のイギリスの詩や哲学・文学の貴重な書籍を蒐集していたが、それらは現在レディング大学に寄贈されている。 1930年代にフィンジはほんの2・3曲しか作曲しなかったが、これらの作品、なかでもトラハーンの詩による《降誕祭Dies natalis 》(1939年)において、フィンジの成熟期の様式が発達した。フィンジ夫妻は、詩人で作曲家のアイヴァー・ガーニーの作品を、本人に代わって目録にし、校訂し、出版できるようにした。また夫妻は、イングランドの民謡や、古い時代のイギリスの作曲家(たとえばウィリアム・ボイスやジョン・スタンリー、チャールズ・ウェスレーら)の作品を研究して、出版した。 1939年にフィンジー夫妻は、バークシャー、ニューベリー近郊のアシュマンズワースに転居する。フィンジーはアマチュア合奏団を結成し、没年までその指揮と、18世紀や現代の弦楽合奏作品の演奏に取り組んだ。この演奏には、ジュリアン・ブリームやケネス・レイトンのような若手音楽家にも、出演や作品提供の機会がもうけられていた。
※この「1933年 - 1939年:音楽的発展」の解説は、「ジェラルド・フィンジ」の解説の一部です。
「1933年 - 1939年:音楽的発展」を含む「ジェラルド・フィンジ」の記事については、「ジェラルド・フィンジ」の概要を参照ください。
- 1933年 - 1939年:音楽的発展のページへのリンク