1803-1806年 ウィーンでの学びとドイツ演奏旅行
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「フリードリヒ・カルクブレンナー」の記事における「1803-1806年 ウィーンでの学びとドイツ演奏旅行」の解説
1803年の後半になって、カルクブレンナーはさらに研鑽を積むためウィーンへと赴いた。実のところなぜ彼がこうした行動に出たのかははっきりしないが、彼がウィーン古典派を代表する人物に教えを請うことによって、自分の修練の完成としようとしたのではないかと推測される。いずれにせよ、彼とってそれは容易いことだったに違いない。何しろ、彼自身が母語としてドイツ語を話せる上に、オーストリアの首都でも音楽人として名の通った父の支えがあっただろうからである。 カルクブレンナーはウィーンでアルブレヒツベルガーの対位法の講義を受けた。アルブレヒツベルガーはすでに高齢であったが、オーストリアの音楽理論界では最も高名な人物であり、同時に当時最高の対位法の作曲家であった。さらに、彼はベートーヴェン、ツェルニー、フンメル、モシェレス、ヴァイグル、リースらの師であり、またハイドンの親しい友人でもあった。常に富と名声に目を向けていたカルクブレンナーのような者の履歴書に記載するにあたって、アブレヒツベルガー以外の誰の名なら、より印象的になるだろうか。対位法のレッスンを受ける傍ら、彼はハイドンやベートーヴェンが、彼の最大の宿敵であったフンメルと二重奏を行うのを何度も目にしている。こういう経緯が、カルクブレンナーが残りの人生において、自分自身を最後の古典派作曲家であると位置づけることに、お墨付きを与えたのである。彼は頑なに自分を古い楽派に置こうとした。その古い楽派とは、ベートーヴェン、ハイドン、リース、そしてフンメルの系譜である。 教育課程を修了したカルクブレンナーは、1805年から以降はコンサートピアニストとしてベルリン、ミュンヘン、シュトゥットガルトに姿を現している。
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