1561年のワルドー派虐殺
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「it:Strage dei Valdesi di Calabria」も参照 ピエモンテでのワルドー派の活動活発化を受け、影響力のあったモンドヴィ司教・枢機卿ミケーレ・ギスリエーリ(のちの教皇ピウス5世)は、1560年、ワルドー派に対する十字軍を開始した。 カラブリアのローマ・カトリック教会修道院長 Giovan Antonio Anania はギスリエーリに対し、カラブリアのワルドー派が独自の説教師を採用していることを報告したため、ギスリエーリは修道院長に対し、コゼンツァ大司教 Taddeo Gaddi と連携して異端ワルドー派を根絶するよう命じた。まず、Anania は脅迫をもってワルドー派に改宗を強要しようとしたが、かれらはこれを拒否した。不吉な予感を得た多くのワルドー派の人々は、周辺地域から要塞化されたグアルディアへと逃げこんできた。グアルディアの領主サルヴァトーレ・スピネッリ(Salvatore Spinelli、1506年頃 – 1565年)はワルドー派を落ち着かせるよう試みるとともに、 Pascale と Uscegli には逃亡を勧めたが、無駄に終わった。 異端に与しているという非難を受けることを望まなかったスピネッリは、謀略を用いた。1561年6月、彼は40人の家臣とともに町の中に入ることを求めたが、その際には非武装で赴くと伝えた。領主に忠実なグアルディアの人々は、かれらを町に入れた。6月4日から5日にかけての夜、スピネッリとその部下たちは隠し持っていた武器を執り、町を制圧した。そして続く2週間の間に、スピネッリたちはグアルディアとその周辺で2000人のワルドー派を殺害した。 サルヴァトーレ・スピネッリは、異端ワルドー派の根絶を記念するために、グアルディアにドミニコ会の教会 Chiesa del SS. Rosario を寄進した。1565年4月、彼はその功績をもってフスカルド侯爵に叙せられた。
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