1524年の遠征
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「ロシア・カザン戦争 (1521年-1524年)」の記事における「1524年の遠征」の解説
1524年の春の晩期にモスクワ大公ヴァシーリー3世はカザン・ハン国への大規模な遠征を敢行した。形式上は前のハンであったシャー・アリー(シガレイ)がロシア軍を率いることになった。ただし、イヴァン・フョードロヴィチ・ベリスキー公、ミハイル・ヴァシリエヴィチ・ゴルバーティン=シュイスキー並びにミハイル・ユーリエヴィチ・ザハーリンが実戦の指揮を執り、彼等は大船団を率いて全軍の指揮を執った。セミョーン・フョードロヴィチ・クルブスキー公と宮廷待官のイヴァン・ヴァシリエヴィチ・リャツキィーが先軍の、セミョーン・ドミトリエヴィチ・セレビャーニイ=オボレンスキー公とピョートル・フョードロヴィチ・アフリャービニイが右翼軍の、ユーリー・ヴァシリエヴィチ・ウシャーティー公とイヴァン・ミハイロヴィチ・シャーミンが左翼軍の、ミハイル・イヴァノヴィチ・クベンスキー公 とヴァシーリー・ヴァシリエヴィチウシャーティー公が警備兵の指揮を執った。 軍司令官イヴァン・ヴァシリエヴィチ・ハーバル・シムスキーとミハイル・セミョーのヴィチ・ヴォロンツォフの統率のもと、騎兵部隊は船団部隊から独立して行動をとった。ヴァシーリー・アンドレヴィチ・シェレミェーテフとフョードル・セミョーノヴィチ・クリーチェフが先軍の、ピョートル・イヴァノヴィチ・レープニン公とドミトリー・グリゴリエヴィチ・コーパス・ブトゥーリンが右翼軍の、イヴァン・フョードロヴィチ・アヴチーナ=テレプネフ=オボレンスキー公とアンドレイ・アレクサンドロヴィチ・メニショイ・クロポトキンが左翼軍の、イヴァン・ヴァシリエヴィチ・ロシャコフ=カリチョーフとイヴァン・ミハイロヴィチ・チュロク=ザセーキン公が警備兵の指揮を執った。「大貴族の息子」の肩書を有し、カザンで刑死したヴァシーリー・ユーリエヴィチ・ポドジョギン大使の兄弟である大公の代理人のイヴァン・ユーリエヴィチ・シゴーナ=ポドジョギンと書記のアファナーシー・クリーツィンが特別に遠征軍とともにカザン遠征に参加することとなっていた。 1524年5月8日に船団部隊はカザンに向けて出港し、5月15日には騎兵部隊が出陣した。カザン軍のユルタ襲撃を思い描くには国際情勢が味方した。この時期、ポーランド=リトアニア連合の大軍はクリミア・ハン国に侵入してアチャーキフの要塞を破壊した。2つのロシア軍部隊の侵入の報を受け取ったサーヒブ・ギレイはカザンを捨ててクリミアに逃亡し、そこからオスマン帝国のスルタンから援軍を得るために密かにイスタンブールに行く計画を立てた。サーヒブ・ギレイは自身の代わりに13歳の甥である サーファ・ギレイをカザンに留め、ブーラト・シーリン 指導のもとでカザン貴族は彼をハンに祭り上げた。サーデト・ギレイは敵前逃亡した兄のサーヒブ・ギレイの逮捕を命じた。 1524年8月24日にイヴァン・ヴァシリエヴィチ・ハーバル・シムスキーとミハイル・セミョーのヴィチ・ヴォロンツォフの指揮するロシア軍騎兵部隊はイチャコフ平原の戦いにてカザン軍を壊滅させた。戦闘ではロシア軍の戦士は「多くの諸侯、タタール人、チェレミス人、チュヴァシ人を打ちのめし、その他の諸侯、貴族並びに生き残った多くの者を捕えた」。 1524年7月3日に軍司令官イヴァン・フョードロヴィチ・ベリスキー、ミハイル・ヴァシリエヴィチ・ガルバーティン=シュイスキーとミハイル・ユーリエヴィチ・ザハーリン=ユーリエフ率いる船団部隊はカザン前の岸辺に上陸した。軍勢は、包囲を開始するために「ツァーリの平原にて小屋を建て始め」て騎兵部隊が来るのを待った。7月19日にロシア軍の2つの部隊が合流することを恐れたカザン・タタール人は要塞都市を強化しているロシア軍を襲撃した。ロシア軍はカザン軍を撃退はしたものの、同軍の新たなる自営陣への襲撃を阻止することは続けられなかったカ。程なくしてイヴァン・フョーロドヴィチ・ベリスキー公の部隊の兵糧が尽きた。同軍への援軍として90艘の河船から成るイヴァン・フョードロヴィチ・パレツキー公指揮下の第2船団部隊がニジニ・ノヴゴロドを出陣した。ロシア軍の船団の到着を知ったチェレミス人は待ち伏せをして構えた。チェレミス人は最初に岸沿いに船団に随伴していた500人のロシア軍騎兵部隊を打ち取って、その後、夜になってイヴァン・フョードロヴィチ・パレツキー公の河船部隊を襲撃した。多くのロシア軍の戦士が打ち取られたり捕虜になったりした。僅かな船のみがカザン付近のシャー・アリー及び総司令官であるイヴァン・フョードロヴィチ・ベリスキー公の陣営に辿り着くことが出来た。程なくして同地にイヴァン・ヴァシリエヴィチ・ハーバル・シムスキーとミハイル・セミョーのヴィチ・ヴォロンツォフの指揮する騎兵部隊が到着した。 8月15日 にロシア軍部隊は一つになってカザン包囲を開始した。けれどもロシア軍の軍司令官目立った戦果を上げることは出来なかった。カザン郊外に陣取っていたカザン軍部隊はロシア軍の陣地に間断のない急襲を敢行した。ロシア軍は新たなるタタール人の襲撃を撃退するために常に準備を整えていた。程なくして自らの行為が無益であることを理解したロシア軍の軍司令官はタタール人と和平交渉を開始し、和平締結のためにカザンの使節をモスクワに送ることと引き換えにしてカザンの包囲を解くことに合意した。ロシア軍はカザンの包囲を解除して急いで帰国した。 1524年11月にアプパイ・ウラーナとバフティー・キヤータ公率いるカザンの使節がモスクワに到着した。双方の交渉の後、カザンで毎年7月24日に開かれていた定期市をロシアの領域に移管することを唯一の条件として和平が締結された。 ヴァシーリー・ニキーチィ・タイシェフは自著『ロシア史』にて: 「アプパイ・ウラーナとバフティー・キヤータ公の使節がカザンから、その他の者、大公の一員と戦った者がカザン全土から己が責任とサーヒブ・ギレイのハン位のために同年の秋にやって来た。そして大公は彼らの訴えに応じて褒賞を与え、 ヴァシーリー・ダニイロヴィチ・ペニコフ公大使とアファナーシー・クリーツィン書記をカザンに送った。」 と記す。
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