1189年時点でのケシク(チンギス・カン最初のケシク)
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「ケシク」の記事における「1189年時点でのケシク(チンギス・カン最初のケシク)」の解説
職掌転写人名1(部族)人名2(部族)人名3(部族)人名4(部族)アカ(長) aqa ボオルチュ(アルラト) ジェルメ(ウリヤンハン) コルチ(箭筒士) qorči オゲレ・チェルビ(アルラト) カチウン(ジャライル) ジェデイ(マングト) ドゴルク・チェルビ(マングト) バウルチ(厨官) ba'urči オングル(バヤウト) スイケトゥ・チェルビ(コンゴタン) カダアン・ダルドルカン(タルクト) コニチ(牧羊官) qoniči デゲイ(ベスト) ユルドチ(木匠) moči/yürdči クチュグル(ベスト) ウルドゥチ(帯刀者) üldüči クビライ(バルラス) チルグテイ(スルドス) カラカイ・トクラウン(ジャライル) ジョチ・カサル(チンギス・カンの弟) アクタチ(厩官) aqtači ベルグテイ(チンギス・カンの弟) カラルダイ・トクラウン(ジャライル) アドゥーチ(牧馬官) adu'uči タイチウダイ(スルドス) クトゥ・モリチ ムルカルク(ジャジラト) イルチ(使者) elči アルカイ・カサル(ジャライル) タガイ(スルドス) スゲゲイ(スゲゲン) チャウルカン(ウリヤンハン) チンギス・カンは自らの勢力を拡大させる過程で絶対的な忠誠心を有さないキヤト氏の諸クリエンを信頼せず、あくまで自らに忠実なケシク(=第二翼)を拡大させる方針を取った。チンギス・カンのモンゴル・ウルスが拡大するにつれて曽てのケシクたちは一軍を率いる軍団長となっていき、1203年テムジンは未だモンゴルに服属しない最後の有力部族であるナイマン部を討伐するに当たって、始めて千人隊制度とケシク制度の原型を制定した。この時チンギス・カンは千人・百人・十人隊長の子弟から特に優秀な者を550人選抜し、「宿衛(kebte'ül)」を80人、「侍衛(turqa'ud)」を70人、「箭筒士(qorči)」を400人設置し、これが後々まで続くケシクの原型となった。
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