鶴岡親分とは? わかりやすく解説

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鶴岡一人

(鶴岡親分 から転送)

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鶴岡 一人(つるおか かずと〈かずんど〉、1916年7月27日 - 2000年3月7日)は、広島県呉市東二河通(現:西中央)出身[2][3][4][5][6][※ 1]の元プロ野球選手内野手外野手)・監督野球解説者位階従五位1946年から1958年までは「山本 一人(やまもと かずと)」[7]


注釈

  1. ^ 鶴岡は日本経済新聞社の連載『私の履歴書』でも「私は大正五年七月二十七日、呉市東二河通六丁目で生まれた」(『私の履歴書 プロ野球伝説の名将』、日本経済新聞社、2007年、13頁、同書著者略歴(鶴岡 一人 つるおか かずと |日本経済新聞出版社)(Internet Archive))と書いている他、『御堂筋の凱歌』(奥付)や、『わしの野球』(206頁)といった鶴岡の自著全てで「広島県呉市生まれ」と書いている。またボーイズリーグの公式ホームページでも「呉市の生まれ」と話している(鶴岡一人記念大会 | 財団法人日本少年野球連盟 | ボーイズリーグ)(Internet Archive)。呉市にある「鶴岡一人記念展示室」内の略歴でも「呉市生まれ」と記載(呉市スポーツ会館、鶴岡一人記念展示室・鶴岡一人略歴)。一部の文献に「山口県出身」、あるいは「山口県大島郡生まれ」などと書かれた物があるが、山口県大島は両親の出身地(『私の履歴書 プロ野球伝説の名将』12、13頁)ではあるが、鶴岡一人自身は広島県呉市の生まれ育ちであるため、生活実態を出身地の基準とすればこれは誤りとなる。ただし、鶴岡自身の本籍が両親と同じ山口県のままであるかどうかは不明である(大相撲番付では、生活実態のない本籍地や父親の出身地などを力士自身の出身地として届け出る例もあるため)。
  2. ^ 鶴岡の通った五番町小学校と藤村の通った二河小学校は、現在は統合されて呉中央小学校となっている(二河小学校 五番町小学校 (PDF) 呉市役所 2017年)
  3. ^ この海外遠征は、主催新聞同士の競争から、選抜優勝チームを夏の全国中等学校野球選手権大会に出させないための方策であった。原田の回想は著書『太平洋のかけ橋』からの引用。
  4. ^ 現在では当たり前となっている「大学出身」選手のプロ入りもこの当時は存在したが、多くは大学を中退、あるいは卒業後に必ず一度は実業団を経由しており、大学を卒業してそのままプロ入りした者は誰もいなかった(別冊週刊ベースボール冬季号「さらば!南海ホークス〜永久保存版」、ベースボール・マガジン社、1988年、62頁)。
  5. ^ ただし、中島に到っては1938年の春季リーグと合算した場合11本塁打となり、事実上単独での戦前のシーズン最多本塁打となる。
  6. ^ 「鶴岡親分」の名付け親は別所毅彦(近藤唯之『プロ野球監督列伝』、103頁)。別所は「暖簾を誇る巨人や阪神に対して、こちらは新興の意気に燃えていた。巨人戦など『見とれ、鶴岡一家の殴り込みや!』と闘志を燃やした。そんなムードの中で私が最初に『親分』『親分』と言い始めると、やがてみんなが『親分』と呼ぶようになったんだ」と話している(『ベースボールマガジン』1965年9月号、30頁)。東映ヤクザ映画隆盛前のため、選手たちがイメージしたのは清水次郎長である(同書)。
  7. ^ 1950年から2リーグ制、南海ホークスはパシフィック・リーグに所属。
  8. ^ 尾張久次は、自身の推測として真偽のほどは定かではないことと前置きした上で、「野村が選手兼任監督に就任した1970年、ヘッドコーチのドン・ブレイザーは妥当にしてもその他の一軍コーチに旧南海OBが誰もいない組閣をしてOBを激怒させたのが遠因」と述べているが(尾張久次『「尾張メモ」の全貌』、157-158頁)、1970年には生え抜きの穴吹義雄が一軍の外野守備コーチを務めており、明確な誤りである。
  9. ^ 「がめつい」という言葉はもともと関西にはなく、菊田一夫が執筆して1959年に初演された戯曲『がめつい奴』での造語とされる(同項目参照)。また、鶴岡の著書において「グラウンドにゼニが落ちている」という言葉は、監督在任中に刊行した『南海ホークスとともに』(1962年)では前面に出ていないという指摘がある(『南海ホークスがあったころ』P180)。鶴岡は監督退任後の1969年に『ゼニになる野球』という著書(永井正義との共著)を刊行した。
  10. ^ 坂井保之は「鶴岡氏は外国人選手のハンドリングでも、傑出した手腕を発揮した(中略)鶴岡氏の教えをいつも頭の中に置くようにしてきた。おかげで、延べにして40名ほどの外国人選手を出し入れしたが、トラブルらしいトラブルは遭遇しないで来た」などと話している(坂井保之『波瀾 興亡の球譜 失われたライオンズ史を求めて』160-16頁ベースボール・マガジン社、1995年 ISBN 4-583-03258-7 )。
  11. ^ 南海が地方に遠征に行くと鶴岡は一番早く起きて、地元の高校球児の品定めをやっていたという(豊田泰光『プロ野球を殺すのはだれだ』ベースボール・マガジン、2009年、139頁)。
  12. ^ 田淵の最初の結婚は鶴岡夫妻が媒酌(週刊サンケイ 1981年2月19日号、168頁)。
  13. ^ これに関して大沢は著書『球道無頼』(講談社、1996年)において独自の判断で動いたと記している。また、スポニチアネックスの記事でも同様の見解を述べているほか、同記事ではメモの指示したシフトと大沢の動きが異なることも指摘されている(職業野球人・大沢啓二4.尾張メモ)。大沢の著書『OBたちの挑戦X』74-75頁では「オレからすれば(スコアラーのデータは)それほどのものだとは思わなかった」「日本シリーズで大胆に守備位置を変えてプレーすることが出来たのは鶴岡さんの教え」「マスコミは色んなことを言ったが、オレはプロとして何をすれば良いのか考え、実行しただけ。初代親分(鶴岡)の教えを忠実に守っただけ」などと話している。
  14. ^ 同様の記述(スポーツニッポン、2008年7月10日、4面)、【タイガース血風録 猛虎水滸伝】野村と木戸ハワイC意外な共通点【二十歳のころ 野村克也氏(3)】ハワイで門限破り鶴岡監督からビンタ

出典

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  129. ^ 野村克也『運鈍根』206頁
  130. ^ 浜田昭八『監督たちの戦い 決定版 上』115頁
  131. ^ 鈴木良治「真剣勝負の世界に秘められた驚愕の真実を解き放つ!・天敵にまつわる知られざる裏事情 鶴岡一人×野村克也 無視・賞賛・非難の元祖は鶴岡だった!!」『プロ野球情念の天敵対決』宝島社〈別冊宝島1517〉、2008年、16-17頁。ISBN 978-4-7966-6289-5
  132. ^ スポーツニッポン』2008年7月10日
  133. ^ 文藝春秋 2009年11月号、308頁、野村の著書『あぁ、監督』 角川書店、2009年、77、78頁に似た内容の記述。
  134. ^ 岡本伊三美 (2011). 岡本、少しは野球 面白ぅなってきたか―名将・鶴岡一人に学んだこと. SIC. ISBN 978-4904955079 
  135. ^ 広瀬叔功『南海ホークス ナンバ栄光と哀しみの故郷』95頁
  136. ^ 週刊朝日』1981年12月4日号、185頁
  137. ^ 『南海ホークスがあったころ』P78,80 - 81


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