騒動直前の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 15:17 UTC 版)
「愛子内親王不登校騒動」の記事における「騒動直前の状況」の解説
そもそも、敬宮愛子内親王の学習院初等科入学にあたっては従来の皇族と異なり「愛子内親王」ではなく「敬宮 愛子」として学校生活を送っていることを始め、校舎内にも私服護衛官を複数配置するなど厳戒態勢とも呼ばれる様々な体制が敷かれていた。 問題発生の1年半前の時点で既に内親王の長期欠席は度々起こっており、各メディアで報道されていた。 愛子内親王は当時学習院初等科2年に在籍していたが、2010 年(平成22年)2月下旬から風邪による体調不良のため「不規則な通学」が続いており、東京新聞は、「2月22日から26日の間、25日以外を欠席した」と報じた。なお、2月27日 - 28日は土日である。 同年3月1日、内親王は体熱は下がったものの、腹痛や強い不安感を訴えたため欠席。予定通り3月2日に4時間目の授業のみ出席し、給食は食べずに早退。その後、3月5日まで3日間連続して欠席した。 宮内庁東宮職側は3月4日に学習院にファックスで連絡を取り、翌日の会見内容に了承を求め、学習院はそれを受けて欠席原因の調査を開始した。ただし、この話し合いでは、欠席原因に対する双方の主張と見解は平行線をたどったという。 この状況を取材していた『AERA』編集部は、3月8日に発売され、その前に見出しが宣伝される2010年3月15日号に「愛子さま「不登校」の真相」を掲載する準備を始めた。数日間の欠席を不登校ととらえたのである。そのため、この段階で学習院と東宮職の間で穏便な解決を探るチャンスは失われてしまった。
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