雄作戦
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雄作戦(ゆうさくせん)とは[1]、第二次世界大戦における太平洋戦争(大東亜戦争)において、日本海軍の軍令部が1944年前半に企画し、連合艦隊が中部太平洋方面でアメリカ海軍の空母機動部隊および前進根拠地に対し実施予定だった奇襲作戦である。1944年3月末[2]、パラオ大空襲にともない連合艦隊司令部が遭難する海軍乙事件が発生し[3][4]、実行不能となり消滅した[5]。
注釈
- ^ 1943年10月時の第三艦隊(司令長官小沢治三郎中将)に所属していた艦隊型空母は、第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)、第二航空戦隊(隼鷹、飛鷹、龍鳳)の6隻しかなかった。当時、千歳型航空母艦は改造工事中、雲龍型航空母艦や大鳳は建造中で未就役であった。
- ^ ろ号作戦で第一航空戦隊が大幅に消耗、1943年末以降に第二航空戦隊をラバウル方面へ転用して消耗した[16]。
- ^ a b 第一機動艦隊の編成[17] 第三艦隊の第一及第二航空戰隊はソロモン方面敵反攻の開始に伴い同方面基地航空作戰強化の為昭和十八年十一月以後逐次ラバウル方面に使用されて其の戰力の大半を失い、何れも母艦部隊として海上作戰不能の状態に陥つていた。仍て大本營は、昭和十九年二月のトラツク空襲を契機として兩戰隊を内地及シンガポール方面に転用し整備訓練を急がしめつつあつた。一方母艦部隊を有しない第二艦隊は開戰以来概ねそのままとなつていたので、大本營は聯合艦隊水上部隊の綜合威力發揮を容易ならしめる為、三月一日第二及第三艦隊を以て第一機動艦隊(司令長官小沢治三郎中将)を編成した。同日に於ける此の艦隊の編成は次の通りであつた。(編制表略)
- ^ 中部太平洋方面艦隊及第三十一軍の新設[18] 昭和十八年秋南東ラバウル方面に於ける彼我航空兵力の差が次第に大きくなつて来たので、我が海軍は母艦航空兵力をも同方面に増加してて戰勢の挽囘を図つたが、敵の進攻速度を若干遅延せしめ得たに過ぎなかつた。他方敵はマーシャル方面及ニューギニア方面の反攻を強化し昭和十九年二月い日マーシャル諸島の中継基地クエゼリン島に来攻して同島を占領すると共に続いてブラウン諸島に進攻し二月十七日には始めてトラツク諸島に機動部隊を以てする空襲を実施し、我が南東方面作戰の背後を脅威するに至つた。更に二月二十三日にはサイパン テニヤン島方面の初空襲を実施すると共にアドミラルティ諸島をも占領するに至り、敵の進攻速度は次第に増加し、我が防備上の要城たる内南洋に対する敵の攻撃は時日の問題となつて来た。(以下略)
- ^ 1943年(昭和18年)11月下旬のギルバート諸島沖航空戦[19]、12月5日のマーシャル諸島沖航空戦、1944年(昭和19年)1月下旬のクェゼリンの戦い、2月中旬のエニウェトクの戦いとトラック島空襲、2月23日のマリアナ諸島空襲など[20]。
- ^ 三、連合艦隊司令部の遭難[21](遭難の大本営発表略)二月十七日トラツクに対して行われた米機動部隊の大空襲は第二の眞珠湾といわれた程の大損害を日本海軍に与えた。その被害は沈没、巡洋艦二隻、驅逐艦四隻、輸送船二六隻、飛行機の喪失約一八〇機に達した。敵は更に余勢を驅つてサイパン近海に出現しマリアナ諸島一帶は非常なる危險にさらされた。この時の敵機動部隊は大型空母九隻を中心とするもので、米海軍の新造艦多數が戰列に加つていることが明かになつた。この敵の傍若無人の行動に反し日本海軍の航空兵力は戰力愈〃低下して有效なる攻撃を加え得なかつた為に敵は三月三十日遂に内南洋の西端パラオの空襲を開始し四月一日まで三日間連続の攻撃を行つた。当時パラオは内南洋に於ける唯一の安全泊地として連合艦隊旗艦武藏を始め補助艦艇の主力が碇泊していたがその大部は避退に成功し輸送船十数隻が撃沈された。
連合艦隊司令長官古賀峯一大将は艦艇を避退せしめた後自らは幕僚と共にパラオの陸上に移つたが三十一日夕明四月一日には敵上陸の虞あるものと判断し、全局の作戰指導の為比島のダバオに移動することに決心し、艦隊司令部の首腦は同夜大型飛行艇二機に分乗し午后十時頃同地を出発した。一番艇には古賀長官以下、二番艇には福留参謀長以下が搭乗し、夜間飛行を続けてミンダナオ島附近まで進出したのであつたが、天候不良の為一番艇は行方不明となり二番艇は比島のセブ島附近の海上に不時箸し福留参謀長以下約十名の生存者が陸軍守備隊に収容せられた。一番艇は其の後全く消息を斷ち古賀長官以下は殉職と認定せられたのであつた。(以下略) - ^ a b 雄作戰構想[23] 一方敵はメジュロ等の前進根據地を急速に強化中と認められ、遠からざる将来に大規模な攻勢作戰を企図しているものと判斷された。斯る情勢に処して日本海軍は、敵反攻の核心たる空母を基幹とする敵機動部隊の撃滅を先決問題となし予てより之が好機を覗いつつあつた。
即ち大本營海軍部は既に早くも三月、敵の来攻に先だち敵機動部隊の主力を其の前進根據地メジュロに於て先制奇襲すべく雄作戰なるものを立案して聯合艦隊司令部と連絡中であつた。その要旨は我第一機動部隊及基地航空部隊の大部約一,〇〇〇機並に潜水艦部隊を以て、五月上旬又は中旬、東部内海地方面より出撃して主として小笠原、マーカス及ウエイキ島方面よりメジュロに進撃するにあつた。然し此の計画は三月末の聯合艦隊首腦部の遭難により中止の已むなきに至つた。(おわり) - ^ 新編直後の2月23日、アメリカ軍空母機動部隊のマリアナ諸島空襲で第一航空艦隊は大打撃を受けてしまう[33]。
- ^ (中略)[34] 以上の状況に対処する為昭和十九年初頭大本營は中部太平洋方面の防備を更に速に強化するに決し、逐次処置を執つた。即ち海軍としては二月上旬連合艦隊の水上部隊主力の前進根據地をトラツクからパラオに変更し、連合艦隊司令部も亦同所に於て作戰指揮を執り、又二月中旬前年七月以来大本營直轄部隊として編成訓練中の第一航空艦隊主力を内南洋及比島方面に進出待機して連合艦隊の作戰に協力せしめた。この航空部隊は三月十五日には連合艦隊に編入せられ又ラバウル方面から後退せしめた基地航空部隊を改編して内南洋方面に配備した。(以下略)
- ^ 「武蔵」(連合艦隊司令部)と駆逐艦3隻(白露、満潮、藤波)は2月24日に呉を出発[36]、2月29日にパラオ到着[37]。
- ^ 他にフィリピンスールー諸島のタウィタウィ島に艦隊根拠地を設営中だったが、1944年2月時点では測量中という段階だった[39]。
- ^ (昭和19年)[45]〔 二十九日|一四二五 GF各(長官)|聯合艦隊信電令作第七三一号 一、一一五七敵ノ航空母艦、戰艦各数隻 巡洋艦、駆逐艦各数隻パラオノ一三八度三八〇浬針路二九〇度速力一五節明日パラオ空襲ノ算大ナリ YBハ取敢ヘズ空襲ヲサクルガ如ク行動スベシ武藏 第十七駆逐隊ヲYBニ編入ス.|無電 〕
- ^ 「武蔵」の内地帰投にあたり、護衛は第17駆逐隊(浦風、磯風、谷風、浜風)から駆逐艦3隻(白露、満潮、藤波)に変更された[46]。第17駆逐隊はダバオへむかう[47]。
- ^ 古賀長官は行方不明となり[52]、殉職認定[53]。福留参謀長や山本祐二参謀は一時的にゲリラの捕虜になって情報が流出した[54]。
- ^ 一、決戰の機迫る[58] 四月に於ける海軍の態勢 パラオより比島に向う移動途中に於ける聯合艦隊司令部主要要員の殉職に伴い、昭和十九年四月、聯合艦隊の指揮は在スラバヤの南西方面艦隊司令長官高須四郎中将が之をとつていた。/ マリアナ、カロリン方面に於ては、第一航空艦隊が鋭意作戰準備の完成に努めつつあつた。又中部太平洋艦隊は、第四艦隊、第十四航空艦隊(第二十二及二十六航空戰隊基幹)及陸軍の第三十一軍を指揮して中部太平洋方面の防備を固めつつあつた。濠北方面の防備は南西方面艦隊が之に当つていた。三月一日編成されたところの第一機動艦隊の主力はシンガポール及ルンガ方面に於て、又その一部は内地に於て及次期作戰準備に努めていた。(以下略)
- ^ (二)潜水部隊[64] 潜水艦は奇襲作戰、哨戒及追撃に使用する奇襲作戰はマーシャル群島方面の泊地に碇泊中の敵機動部隊に對して行ふもので龍卷作戰と呼稱した/使用兵器は特四戰車と呼ばれた一種の魚雷艇であつてこの兵器の輸送に大型潜水艦五隻を使用する様に計畫した(以下略)
出典
- ^ a b 戦史叢書102 1980, p. 406雄(ユウ)作戦
- ^ a b 戦史叢書54 1972, pp. 359–360米機動部隊パラオ来攻に伴う兵力展開
- ^ 戦史叢書54 1972, p. 373古賀司令長官の殉職/「あ」号作戦計画の指示
- ^ a b 戦史叢書95 1976, pp. 378–380敵の三角地帯来襲
- ^ 源田実 1996, pp. 268–271立ち消えになった「雄」作戦
- ^ 勇将小沢治三郎生涯 1997, pp. 129–130巨星、山本長官南海に墜つ!
- ^ 戦史叢書95 1976, pp. 309–310「い」号作戦と山本長官の戦死
- ^ “山本聯合艦隊司令長官戰死す 後任に古賀峰一大将親補さる”. Hoji Shinbun Digital Collection. Aruzenchin Jihō, 1943.05.22. pp. 01. 2024年2月12日閲覧。
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- ^ #第3段作戦・第2、作戦構想 pp.13-18〔 三、Z作戰の構想 〕
- ^ 戦史叢書95 1976, pp. 314–317聯合艦隊第三段作戦命令等発令
- ^ a b 源田実 1996, p. 243.
- ^ 戦史叢書54 1972, p. 319a連合軍ラバウルに迫る
- ^ 戦史叢書95 1976, pp. 320–322「ろ」号作戦とボーゲンビル沖海戦
- ^ 勇将小沢治三郎生涯 1997, pp. 130–133激戦つづくソロモン海戦
- ^ 戦史叢書95 1976, pp. 324–325十二月、翌年一月ころの南東方面の戦況
- ^ #あ号作戦計画 pp.18-21
- ^ #絶対国防圏戦備強化 pp.5-6
- ^ 戦史叢書95 1976, p. 323aギルバート沖海戦
- ^ 源田実 1996, pp. 252–256果然、内南洋に攻勢を受く
- ^ #絶対国防圏戦備強化 pp.17-19
- ^ #絶対国防圏戦備強化 pp.2-4
- ^ #あ号作戦計画 pp.2-3
- ^ #第3段作戦・第3、経過概要 pp.7-8
- ^ 戦史叢書95 1976, pp. 323b-324クェゼリン等の失陥
- ^ 戦史叢書54 1972, pp. 319–320(一 全般経過の概要)連合軍内南洋を制圧
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- ^ 戦史叢書95 1976, pp. 348–350一航艦の編成
- ^ 源田実 1996, pp. 248–251.
- ^ 戦史叢書95 1976, pp. 374–375敵機動部隊マリアナ来襲
- ^ #絶対国防圏戦備強化 pp.6-7
- ^ 手塚、武藏上 2009, pp. 264–265.
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- ^ 戦史叢書54 1972, pp. 343–344(八 比島方面の状況)艦隊泊地の整備
- ^ 源田実 1996, pp. 263–267第一機動艦隊の特色
- ^ 戦史叢書95 1976, pp. 376–378.
- ^ 勇将小沢治三郎生涯 1997, pp. 133–134小沢中将、第一機動艦隊司令長官に就任
- ^ a b 戦史叢書71大本営海軍部・聯合艦隊(5)第三段作戦中期364-366頁
- ^ 手塚、武藏上 2009, pp. 296–297.
- ^ #S18.12高雄戦時日誌(2) p.63
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- ^ 勇将小沢治三郎生涯 1997, pp. 135–136古賀司令長官の殉職
- ^ 戦史叢書54 1972, pp. 378–379聯合艦隊司令部の移動
- ^ 戦史叢書54 1972, pp. 379–380一、二番機の遭難
- ^ 源田実 1996, pp. 244–245.
- ^ a b “機上で前線全般作戰を指導中 古賀聯合艦隊司令長官殉職す 後任豊田大将の下に士氣昂し”. Hoji Shinbun Digital Collection. Boruneo Shinbun, 1944.05.06. pp. 01. 2024年2月12日閲覧。
- ^ 手塚、武藏上 2009, pp. 319–326.
- ^ 戦史叢書71大本営海軍部・聯合艦隊(5)第三段作戦中期367頁
- ^ #第3段作戦・第3、経過概要 pp.9-10
- ^ 戦史叢書54 1972, pp. 380–382聯合艦隊の指揮継承
- ^ #あ号作戦計画 pp.1-2
- ^ 戦史叢書95 1976, pp. 380–381「あ」号作戦計画
- ^ 戦史叢書54 1972, pp. 389–390「あ」号作戦準備
- ^ 源田実 1996, pp. 259–261「あ」号作戦
- ^ 戦史叢書102 1980, p. 403a龍巻作戦
- ^ #第3段作戦・第2、作戦構想 pp.18-24〔 四、あ號作戰の構想 〕
- ^ #第3段作戦・第2、作戦構想 p.22
- ^ 戦史叢書102 1980, p. 403b丹作戦
- ^ 戦史叢書102 1980, p. 401玄作戦
- ^ 戦史叢書71大本営海軍部・聯合艦隊(5)第三段作戦中期366-367頁
- ^ 源田実 1996, p. 271.
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