隋の建国までとは? わかりやすく解説

隋の建国まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 08:55 UTC 版)

「隋」の記事における「隋の建国まで」の解説

楊堅の父の楊忠北魏西魏東魏分裂する際(後にそれぞれ北周北斉取って代わる)に宇文泰に従って西魏成立貢献し大将軍務め、随国公の地位得ていた。 568年楊忠死去し楊堅大将軍・随国公の地位受け継いだ北周武帝宿敵北斉滅ぼし、更に南の陳を滅ぼす前段階として北の突厥への遠征企図していたが、578年崩御した。武帝の跡を継いだ宣帝奇矯人物で、5人の皇后持っていた。このうち1人楊堅長女楊麗華であり、楊麗華宣帝側室である朱満月生んだ太子宇文闡(後の静帝)を育てた宣帝奇行留まるところを知らず在位8カ月退位し静帝に位を譲り、自らは天元皇帝名乗って政務放棄したので、静帝後ろに立つ丞相楊堅への声望高まっていった。580年宣帝崩御すると、楊堅静帝摂政として全権掌握した。これに反発する武川鎮軍閥内の有力者たちは楊堅に対して反乱を起こすこの中で最も大規模なものが尉遅迥よるもので、一時楊堅押さえ関中地域以外のすべてで反乱起きるほどになったが、楊堅巧みにこれを各個撃破して、北周内における覇権確固たるものとする同年末に随国公から随王へと進み北周兵権与えられ、更に581年静帝より禅譲受けて隋を建国した。 ※これ以降楊堅を諡(おくりな)の「文帝」で呼ぶ。

※この「隋の建国まで」の解説は、「隋」の解説の一部です。
「隋の建国まで」を含む「隋」の記事については、「隋」の概要を参照ください。

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