陣羽織二本松少年隊大壇口出陣者名(隊長、副隊長、他25名)
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「二本松少年隊」の記事における「陣羽織二本松少年隊大壇口出陣者名(隊長、副隊長、他25名)」の解説
隊長 ★木村銃太郎 22歳 副隊長 ★二階堂衛守 33歳 12歳 ☆久保豊三郎 13歳 上田孫三郎 ★高橋辰治 ★徳田鉄吉 ★岡山篤次郎 ☆大島七郎 ☆小川安次郎 ★遊佐辰弥 後藤釥太 高根源十郎 14歳 ★成田才次郎 成田虎治 武谷剛介 全田熊吉 宗形幸吉 馬場定治 水野進 鈴木松之助 ★木村丈太郎 渡辺駒之助 15歳 ★奥田午之介 ☆久保鉄次郎 ☆三浦行蔵 安部井壮蔵 17歳 ★大桶勝十郎 ☆は負傷者、★は戦死を示す。うち高根源十郎と安部井壮蔵は同じく丹羽右近隊隷下の別の隊の所属であったとされる。奥田午之介は高根三右衛門隊、久保鉄次郎は大谷鳴海隊であったが木村隊に編入された。 12歳の久保豊三郎と、15歳の久保鉄次郎は兄弟であり、兄・鉄次郎は病弱でありながらも、「豊三郎までがいったのに、おめおめとねている訳にはいきません」と言って母親を振り切り、弟のあとに続いたという。その後2人は負傷して称念寺に運ばれたが、おたがいのことを知らないままに11月1日に弟の豊三郎が、12月6日に鉄次郎が亡くなったとされている。 また、岡山篤次郎は大壇口で戦死したとされるが、意識不明のところを土佐藩兵によって運び込まれ、同日の夕刻に死亡したともいわれる。土佐藩兵たちは岡山の最期に心を打たれ、反感状を送った他、「君がため二心なき武士の 命は捨てよ名は残るらん」との弔歌を詠んだ。 生存者のうち、三浦行蔵は、豆畑で倒れていたところを下川崎村の忠八という農民に助けられ、彼の自宅にて介抱された。だが、仲間や隊長が戦死した中で生き残った事を恥じ、数年後忠八が少し目を離したすきにいなくなっていたという。 水野進は好之と名を改め、竹根小学校長、二本松町助役、安達郡会議員、二本松電気・仙台電気常務役などを歴任して二本松の復興に尽力し、また「二本松戊辰少年隊記」の編纂など、少年隊の歴史の記録に努めた。安部井壮蔵は香木と名を改め、陸軍少尉に任官。乃木希典率いる歩兵第14連隊第2大隊第1中隊所属となり、西南戦争にて戦死した。 木村隊以外の生存者では、加藤犬蔵は月岡吉則と改名し西南戦争に参加、大谷与兵衛隊の山岡房次郎は南次郎と改名し、福島県医師会名誉会長を務めた。
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