関西を山口組と二分
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連絡事務所(本部)を神戸市兵庫区上沢通1丁目1番地、電話(6)4297~4298で昭和25年、花興行を行ったことを契機として本多会を結成。数千の子分がいた。大幹部の28人衆とよばれる猛者を統率し、彼らが四国、中国地方の子分を率いており、関西を山口組と二分した。1963年4月に第二次広島抗争が始まる。第二次広島抗争は、地元暴力団の打越会と山村組との間の抗争であるが、打越が山口組の舎弟となり、山村が本多会会長・本多仁介と兄弟盃を交わしていたことから、山口組・本多会間の代理戦争となった。猪野健治は児玉誉士夫の東亜同友会はこの両者の対立で失敗したとしている。1963年7月28日午後1時より、本多仁介は跡目を平田勝市に譲る。三宮のキャバレー新世紀で行われた代目披露には大野伴睦も演説をした上に原健三郎(後に衆議院議長)や2003年から2011年まで明石市長を務めた北口寛人の父である北口進市議ら政界関係者も多数参加した上に財界からも内田洋行社長をはじめ多数が駆けつけた。なお、飯干晃一「仁義なき戦い・決戦篇」第15章では1963年初頭での傘下人員数が山口組9450人、本多会が4090人だが、地元兵庫県に限っては山口組1359人、本多会1823人と逆転していると記されている。
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