鎮漣謀殺と下蒲池の滅亡
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龍造寺氏が勢力を拡張し、肥前をほぼ平定、筑後へと進出してきた際には、父鑑盛以来の関係もあって、蒲池鎮漣はしばらく龍造寺隆信のために働く。しかし天正8年、鎮漣は大友義統に「先非を改め、貞心を励ましむべきの由」を伝え帰順が認められ、再び大友氏に従臣し、動員された龍造寺軍から度々離脱するようになる。 天正8年8月、度重なる戦線離脱を見咎めた隆信は約2万の兵を柳川城に向け鎮漣と合戦となった。鎮漣は柳川城にかなり長く籠城したが(その期間についてはないくつか説がある)、兵糧も乏しくなり落城も目前となったため、叔父の田尻鑑種の仲介で龍造寺隆信と講和した(「九州治乱記」「蒲池物語」)。この後、龍造寺隆信は娘の玉鶴姫を鎮漣の妻にし、蒲池氏と龍造寺氏はいわば親戚関係となった。龍造寺に従臣し、隆信と義理の親子となった鎮漣であるが、実はその裏で大友への従臣を続けていた。 北肥戦誌によれば、柳川城の戦いが終わった直後、田尻鑑種が隆信へ、蒲池鎮漣が薩摩の島津に通じていると知らせた。隆信は娘婿を信用しており相手にしなかったが、その後も筑後からは鎮漣叛意ありとの情報が度々もたらされる。そして鎮漣親族でもある西牟田鎮豊から、島津の老臣伊集院右衛門太夫から蒲池十郎宛に出された書状が提出され、隆信はようやく鎮漣叛意を悟ったという。隆信と田尻鑑種は、鎮漣と鎮漣一族を全て征伐することを計画する。(「九州治乱記」)。隆信は、鎮漣に須古の新城を見学するため肥前を訪問することを要請し、これに応じた鎮漣は佐賀にて謀殺される。鎮漣殺害後、龍造寺隆信は柳川の鎮漣残党退治を命じ、田尻鑑種がその尖兵として柳川に兵を進め、塩塚城に籠もった鎮漣残党を駆逐し独立勢力としての下蒲池は滅亡した。その際、龍造寺四天王の一人百武賢兼は、裏切りを働いたとはいえ蒲池家は龍造寺氏にとって大恩ある家であり、これを滅ぼすことについては疑問を抱いたと言われている。
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