鎮漣謀殺と下蒲池の滅亡とは? わかりやすく解説

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鎮漣謀殺と下蒲池の滅亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 09:56 UTC 版)

蒲池氏」の記事における「鎮漣謀殺と下蒲池の滅亡」の解説

龍造寺氏勢力拡張し肥前をほぼ平定筑後へと進出してきた際には、父鑑盛以来の関係もあって、蒲池鎮漣はしばらく龍造寺隆信のために働く。しかし天正8年、鎮漣は大友義統に「先非改め貞心励ましむべきの由」を伝え帰順認められ、再び大友氏従臣し、動員され龍造寺軍から度々離脱するうになる天正8年8月度重なる戦線離脱見咎め隆信は約2の兵を柳川城に向け鎮漣と合戦となった。鎮漣は柳川城にかなり長く籠城したが(その期間についてはないくつか説がある)、兵糧乏しくなり落城目前となったため、叔父田尻鑑種仲介龍造寺隆信講和した(「九州治乱記」「蒲池物語」)。この後龍造寺隆信は娘の玉鶴姫を鎮漣の妻にし、蒲池氏龍造寺氏はいわば親戚関係となった龍造寺従臣し、隆信義理親子となった鎮漣であるが、実はその裏大友への従臣続けていた。 北肥戦誌によれば柳川城戦い終わった直後田尻鑑種隆信へ、蒲池鎮漣薩摩島津通じていると知らせた隆信娘婿信用しており相手にしなかったが、その後筑後からは鎮漣叛意ありとの情報が度々もたらされる。そして鎮漣親族でもある西牟田鎮豊から、島津老臣伊集院右衛門太夫から蒲池十郎宛に出され書状提出され隆信はようやく鎮漣叛意悟ったという。隆信田尻鑑種は、鎮漣と鎮漣一族全て征伐することを計画する。(「九州治乱記」)。隆信は、鎮漣に須古新城見学するため肥前訪問することを要請し、これに応じた鎮漣は佐賀にて謀殺される。鎮漣殺害後、龍造寺隆信柳川の鎮漣残党退治命じ田尻鑑種がその尖兵として柳川に兵を進め塩塚城に籠もった鎮漣残党駆逐し独立勢力としての蒲池滅亡したその際龍造寺四天王一人百武賢兼は、裏切り働いたとはいえ蒲池家龍造寺氏にとって大恩ある家であり、これを滅ぼすことについては疑問抱いたと言われている。

※この「鎮漣謀殺と下蒲池の滅亡」の解説は、「蒲池氏」の解説の一部です。
「鎮漣謀殺と下蒲池の滅亡」を含む「蒲池氏」の記事については、「蒲池氏」の概要を参照ください。

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