金国との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/02 10:19 UTC 版)
4歳で孤児となるがすでに大人びて慎重、将来の大器をうかがわせた。太学へ入り進士となり、靖康元年(1126年)に太常簿となる。その直後、汴京が陥落され、南方へ逃れた高宗が即位した。高宗の下で累進して礼部侍郎となり、金が必ず来寇すると予測し、国防の必要を力説する。宰相らには杞憂として採用されなかったが、建炎2年(1128年)に金の軍勢が国境を侵しそれに乗じて苗傅・劉正彦が反乱を起こすという事態になる。張浚は川陝諸路宣撫使に任命され、ついで知枢密院事となり反乱軍を鎮圧した。四川防備の重要な意義を訴え自らその任にあたることを請うたので、川陝宣撫処置使に赴任した。3年間の在任中、劉子羽・趙開・呉玠を用いて大いに治績をあげ、紹興元年(1131年)には呉珍を派遣して和尚原の戦いで金軍を壊滅させている。宰相と朱勝非などの弾劾にあい一時職を去ったが、すぐに金軍が劉麟とともに来寇したので、知枢密院事として四川に着任せしめたところ、将兵の意気は大いにあがり、宋軍と対峙した金の将軍の斡啜は退いた。 のちに金の完顔宗翰は「中国で自分の敵となりうるのは張浚だけである」と言い、四川を取る望みを絶つよう本国に遺言したという。
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