重四郎服罪とは? わかりやすく解説

重四郎服罪

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 20:03 UTC 版)

畔倉重四郎」の記事における「重四郎服罪」の解説

牢屋火の手が迫ると、伝馬町牢屋敷牢屋奉行石出帯刀は、囚人解放する牢払い」を決定する3日後に必ず戻ってくることを命じて牢の扉を開けると、大量囚人一斉に逃亡した。この光景近く見ていたのは、囚人牢払いになった知って駆けつけた城富とおふみである。せっかく投獄した畔倉が解放されてしまったことを嘆く城富であったが、その直後、馬に乗った武士現れる。それは大岡越前であった大岡越前の姿を見た畔倉は咄嗟に井戸の影に隠れるが、大岡越前の目を欺くことはできず拘束されてしまう。大岡越前は城富に、畔倉を拘束したことを伝える。さらにその後周囲への聞き込みで畔倉の犯罪立証されることとなった大岡越前役宅裁判開かれた。畔倉は、鎌倉金兵衛安田掃部三田尻茂吉練馬藤兵衛、熊坊主隠亡弥十三五郎強盗殺人犯の武士殺害したことを認めた。ただし、証拠証人もない唯一の事件である穀屋兵衛殺害については、城富を喜ばせるのが癪に障るため一向に否認続けていた。横で傍聴していた城富は、罪を認めるよう畔倉に懇願する。そして城富は、もし畔倉が平兵衛殺害自白すれば大岡越前の首を頂戴する約束になっていると畔倉に伝える。大岡越前もそれを認めると、畔倉は高らかに笑い出し、どうせ死罪になるのなら大岡越前道連れにしようと考え穀屋兵衛殺害したのは自分あり、かつ、その罪を杉戸屋富右衛門擦り付けたことをついに自白する最初事件発生から7年経てようやく真犯人白日のもとに晒された。大岡越前呵呵大笑笑ったかと思うと、「杉戸屋富右衛門、これへ」と叫ぶ。そこに現れたのは死んだ思われていた杉戸屋富右衛門だった。大岡越前は畔倉が犯行否認するのは最初から想定していたため、偽の首を晒し本物の富右衛門奉行所に匿っていたのである晒し首の顔の皮が剥がされていたのは、偽物の富右衛門の首だからである。2枚3枚上手だった大岡越前に畔倉は完敗する最後に畔倉は、「俺は好き勝手に太く短く生きてきた」「お前らはああしてりゃ良かったこうしてりゃ良かった細く長い人生憂いて死ぬに違いない」「俺の名前は後世語り継がれるお前らの名前は残らない」といった旨のことを言い残す。それを聞いた大岡越前はたった一言、「さようであるか」とつぶやく。この言葉のみが大岡裁き記されている。その後、畔倉は市中引き回しの上獄門、そして火あぶりによってこの世去っている。そして皮肉なことに畔倉重四郎の名は後世語り継がれることとなった

※この「重四郎服罪」の解説は、「畔倉重四郎」の解説の一部です。
「重四郎服罪」を含む「畔倉重四郎」の記事については、「畔倉重四郎」の概要を参照ください。

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