郭攸之
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南陽の人《董允伝》。字は「演長」と見られている《廖立伝集解》。 郭攸之は器量と学業によって名を知られ、中郎から侍中へと昇進した《董允・廖立伝》。丞相諸葛亮は北伐のために漢中へと赴くにあたり、上疏して述べた。「侍中の郭攸之・費禕、侍郎の董允らはみな実直で、心は純粋です。これは先帝が陛下のために選抜してお遺しになった者たちです。国益を計算して見極め、忠言を尽くすことこそ、彼らの任務です。宮中の事柄は大小の区別なく彼らとご相談ください。必ずや遺漏を補って利益をもたらしてくれるでしょう。もし盛徳を高める言葉がなければ、すぐさま処刑してその怠慢を明らかにしてくださいませ。」《諸葛亮・董允伝》 同じく侍中であった董允が公明正大であったのに対し、郭攸之は人なつこい性格であったので、ただ定員を埋めるだけでしかなかった。そのため侍中から長水校尉へと左遷された廖立は「中郎の郭演長は他人の言いなりになるだけで、ともに大事を計るには不足しているのに、それが侍中になっている」と激しく非難している《董允・廖立伝》。 【参照】諸葛亮 / 董允 / 費禕 / 劉禅(陛下) / 劉備(先帝) / 廖立 / 漢中郡 / 南陽郡 / 侍中 / 丞相 / 侍郎 / 中郎 / 長水校尉 |
郭攸之
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/23 16:55 UTC 版)
郭攸之 | |
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蜀漢 侍中 | |
出生 | 生年不詳 荊州南陽郡 |
死去 | 没年不詳 |
拼音 | Guō Yōuzhī |
字 | 演長 |
主君 | 劉備→劉禅 |
郭 攸之(かく ゆうし、生没年不詳)は、中国後漢時代末期から三国時代にかけての官僚、政治家。蜀漢に仕えた。字は演長。荊州南陽郡の人。
事績
才能と学問で当時の人々に名を知られた。劉備に仕えた時代の事績は残らないが、出師表によれば費禕・董允らと共に劉備から抜擢されたという[1]。劉備の死後は引き続き劉禅に仕えた。
官位は、出師表で侍中として挙げられている以外、明確でない。『三国志』「廖立伝」によると、侍中だった廖立は、建興元年(223年)に劉禅が即位すると長水校尉に移されたが、その後に「中郎の郭演長は人に付き従うのみの男で、大事を謀るには能力が不足しているくせに、侍中になっている」と語っている。一方、『華陽国志』「劉後主志」では、建興2年(224年)に費禕・董允と共に、黄門侍郎に任命されている。
建興5年(227年)、諸葛亮は出師表において、費禕・董允と同列に郭攸之の名を挙げた。素直で真心があり(「良実」)、志は純粋である(「志慮忠純」)とし、損益を斟酌して忠言を尽くすのはこの3人であると、諸葛亮は評している[2]。また「貞良死節之臣」とも称賛されている。しかし、郭攸之は穏やかで素直な性格であるがゆえに、侍中の官位に留まるのみであった。そのため、劉禅に忠言を奉る役割は全て董允が担ったという[1]。
小説『三国志演義』でも、出師表に名前が挙げられるのみで、取りわけ活躍が見えない。
脚注
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