辺境防衛と支援に奔走
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 10:19 UTC 版)
「ロドリゴ・ヒメネス・デ・ラダ」の記事における「辺境防衛と支援に奔走」の解説
ナバス・デ・トロサの戦いが終わった後は辺境防衛に赴き、1214年に飢餓に苦しむカラトラバ(英語版)の守備隊やカラトラバ騎士団へ様々な援助を与え、金銭・食糧補給や砦の構築、負傷兵をトレドへ運ばせて治療まで施し、重病で満足に動けないアルフォンソ8世に代わって辺境防衛を維持、恩賞としてトレドへ20の村を王から授けられた。王国の国境やラ・マンチャ司教区の土地の画定にも奔走している。 同年にアルフォンソ8世が死去、エンリケ1世、ベレンゲラ、フェルナンド3世とカスティーリャは王位が目まぐるしく変わり、継承に伴う権力争いでレコンキスタは1224年まで中断された。ムワッヒド朝との戦いは聖職者・騎士団・辺境民たちに任され、ラダもその一員として活動、1217年に教皇ホノリウス3世を訪問した際、新たな十字軍を組織するための教皇特使に任命、翌1218年にスペイン志願兵や騎士団などの参加者を集めた十字軍を結成した。ただし成果はほとんど無く、1218年のカセレス包囲は失敗、翌1219年・1220年の2度にわたるレケナ包囲も失敗に終わり、教皇によりカセレス包囲などの十字軍の指揮はレオン王アルフォンソ9世に交代された。軍事面は失敗続きだったが、幼少のフェルナンド3世の信頼を獲得、この王にも補佐役として仕えることになった。 この間の1215年から1216年に開催された第4ラテラン公会議にスペインの高位聖職者たちを率いて出席、議決事項である十字軍唱導など教会改革をカスティーリャへ導入した。一方、同じく議決された反ユダヤ人の諸条項は実行しなかったが、これにはムスリムやユダヤ人など異教徒の共存を認めるラダなど当時のスペイン人の心境が影響している。
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