軍法会議と処刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 18:29 UTC 版)
砦の失陥は最初イギリス国民を憤慨させた。ビングは本国に送還され、戦時服務規程違反として軍法会議にかけられる。この規定は当時敵に対して最善を尽くさなかった士官を処罰する規定が改定されたばかりであった。これにはオーストリア継承戦争中の1745年に、44門フリゲートアングルジーのベイカー・フィリップスという若い海尉が銃殺された事件が関係している。アングルジーのエルトン艦長は砲撃により戦死し、その後指揮権を引き継いだフィリップスはフランスに降伏せざるを得なかったのだが、これが「最善を尽くさなかった」と判断されたのである。裁判ではエルトンの落ち度が明らかになったのにも関わらず、フィリップスの処刑は海軍の高官たちに承認された。彼らは同階級の士官たちにはよく見せる寛大さを若い海尉に対して発揮しなかったのである。フィリップスの刑はポーツマス泊地で執行された。この不公正な審判はイギリス国民を激怒させ、戦時服務規程は交戦時に「最善を尽くさなかった」士官すべてを死刑にするよう改定された。 一方ビングがミノルカで全力を尽くさなかったのは否定できない。彼は命をかけてでもフランス艦隊を追撃するべきだったのである。ビングの裁判では「怯懦」「不忠実」については無罪とされ、ただ「最善を尽くさなかった」ために有罪だと判断された。軍法会議に戦時服務規程を歪める権限はないため、ビングは自動的に銃殺刑が確定した。しかしながら審議に加わった士官たちはビングが国王の特赦を得られることを期待し、海軍本部に口利きを依頼したのである。 刑罰の重さに加えて、海軍本部はビングにすべての責任を負わせることで非難を逃れようとしているという尤もな見方が広まったため、当初はビングに厳罰を望んでいた海軍士官や国民はビングに同情的になっていった。当時庶民院の議長だったチャタム伯ウィリアム・ピットは王に「陛下、庶民院は慈悲を望んでおります」と訴えたが、ジョージ2世は「あなたは私に庶民院の感覚が国民のそれとは違うことを教えてくれた」と返答した。結局王の赦免は得られず、ビングの処刑は1757年3月14日に戦列艦「モナーク」の艦上で執行された。
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