貞治の変
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貞治の変(じょうじのへん)は、日本の南北朝時代後期(室町時代初期)の貞治5年(正平21年、1366年)、室町幕府の執事(後の管領)であった斯波義将及びその父で2代将軍足利義詮側近の有力守護大名であった斯波高経が失脚した事件。「貞治の政変」とも。
- ^ 三条公忠『後愚昧記』貞治二年七月十日条「七月十日、丁丑、今夜洛中皷騒、武士馳参云々、不知何事矣、所詮佐渡判官入道導誉以下大名等、欲伐修理大夫入道<当時武家執事父>大夫入道又用心之故云々」。
- ^ 市沢2008、79p。[要文献特定詳細情報]
- ^ 『吉田家日次記』「八月八日、戊午、今夜武家辺以外動揺、是今夜大樹(義詮)可治罰執事修理大夫入道々朝(高経)之由被仰之間、諸軍勢馳集将軍亭、自大樹被立使於道朝云、所詮急可下向、不下向者、可治罰云云」。
- ^ 『大乗院日記目録』([[大乗院 (門跡寺院)|]]は興福寺の塔頭である)「八月九日、今日権大夫入道々朝没落北国、依南都訴訟也」。
- ^ 『興福寺年代記』貞治五年八月十二日条「神木帰座、僧俗整威儀、見物驚耳目訖」。
- ^ 『春日若宮神殿守記』「一丙午八月、シツシ侍所ヲ、シヤウグンヨリ押ヘキヨシ評定在之、其由キコユル間、夜中ニミナミナヲチウセヌ、是ハヒトエニ春日大明神ノ御罰ト人々ヒコウス」。
- ^ 『太平記』巻三十九 諸大名、道朝を讒する事「忠諫ノ下ニ死ヲ賜テ、衰老ノ後に尸ヲ曝サン事、何ノ仔細カ候ベキト、恨ノ面ニ涙ヲ拭テ申サレケレバ、将軍モ理ニ服シタル体ニテ、差タル御言ナシ。良久黙然トシテ並みだヲ一目ニ浮ベ給フ。暫有テ道朝已ニ退出セントセラレケル時、将軍席ヲ近附給テ、条々ノ趣実モサル事ニテ候ヘドモ、今ノ世ノ中、我心ニモ任セタル事ニテモナケレバ、暫越前ノ方ヘ下向有テ、諸人ノ申処ヲモ宥ラレ候ヘカシト宣ヘバ、道朝畏テ承ヌトテ、ヤガテ退出セラレヌ」。
- ^ 市沢2008、80p。[要文献特定詳細情報]
- ^ 『後愚昧記』貞治五年八月十八日条。
- ^ 中原師守『師守記』貞治六年九月一日条「故修理大夫入道道朝子息治部大輔義将自越前上洛歟云々、依御免也」。
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