諸説ある保成の最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/07 07:18 UTC 版)
翌永禄6年(1563年)3月の「牛久保城外の戦い」では大剛の勇士とされた保成も重傷を負った。この時の相手は徳川方の将・松井忠次であったともいう(『牛窪密談記』による。但し宝飯郡八幡三片城という異説あり)。この頃より保成の事績を示す同時代文書や記録も無く、近世初期成立の『牛窪記』は負傷後、その場で自害と記し、同じく近世初期の『牛窪密談記』では暫く後に自害ともいう。あるいはその負傷がもとでその年にそのまま死去したとする説もある。また、同士討ちによる戦死という宮嶋記のような異説も存在し、保成の死去の有り様は混沌としている。
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