誕生とその経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 07:00 UTC 版)
四天王プロレスと呼ばれる試合スタイルが初めて行われたのは、1993年7月29日に日本武道館で三沢光晴と川田利明が対戦した全日本プロレス三冠ヘビー級王座タイトルマッチであったといわれる。この試合で三沢は、川田を立て続けに4回スープレックスで投げてからピンフォールによる勝利を収めた。 当時の全日本プロレスでは天龍源一郎が退団し、さらにジャンボ鶴田が内臓疾患により第一線を退いたことにより、三沢が実質的なエースとなっていた。全日本プロレスでレフェリーを務めた和田京平によると、この時期に社長のジャイアント馬場はプロレスの理想像を追求し、三沢に川田、小橋健太、田上明を加えた超世代軍と呼ばれる若手レスラーに、自らの理想とする試合形式、すなわち凶器攻撃、流血、リングアウト・反則・ギブアップによる決着のない、ピンフォールによってのみ決着するスタイルをとるよう要求した。その結果、三沢らは3カウントが入る寸前でフォールを返しながら頭部から相手を落とす大技を繰り出し続け、相手を「もう立てない」という状態に追い込んでピンフォール勝ちを収めるという筋立てで試合を行うことを余儀なくされた。1993年に川田が超世代軍を離脱すると三沢たちはプロレス四天王(後に秋山準が加わり「五強」)と呼ばれるようになった。プロレス四天王が行う「限界を超えるような技の攻防戦」は四天王プロレスとして認知され、プロレスファンから熱狂的な支持を集めた。 週刊ゴング元編集長の小佐野景浩は、ジャイアント馬場によってリングアウトや反則による決着ばかりでなく舌戦によって注目を集めることも禁止されたため、試合のレベルを高めていかざるを得なかったのだと指摘している。プロレスラーの渕正信は、「鶴龍対決を超える」という目標を達成するためには四天王プロレスのようなスタイルをとるしかなかったと述べている。プロレスラーの垣原賢人は、トップの人数が少なくライバル団体の新日本プロレスに比べ話題性に乏しい全日本プロレスにとって、試合内容を高めることが唯一の対抗手段であったと述べている。相手を頭部から落とす大技はリング上だけでなく、エプロンから場外めがけて放たれることもあった。
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