親英から反英へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 07:25 UTC 版)
「全インド・ムスリム連盟」の記事における「親英から反英へ」の解説
この後三大綱領に沿った連盟の運営が数年間行われたが、1911年ティラクらインド国民会議の人々による激しい反対運動によりベンガル分割令が撤回されてしまったことで、状況は一変した。東ベンガル州での数的優位が崩れてしまうからである。これにより連盟とイギリスの関係は悪化したが、第一次世界大戦が始まるとイギリスはインドに対して、兵員を送る見返りに独立を承認したので、沈静化したかに見えた。だが戦中にイギリスがイスラム教国家オスマン帝国と開戦したことに対して今までの不満が爆発し、綱領のイギリスへの忠誠は取り除かれ、代わりに自治政府の樹立を目標に掲げた。指導者も、アリー兄弟や、M.ジンナー、アーザードらの急進的な若手世代へと移った。1916年には、インドの自治達成のために国民会議とラクナウ協定(英語版)を結び、「全インド自治同盟(英語版)」(Indian Home Rule Movement)を設立して、共同憲法草案の作成や分離選挙制などにおいて協調することとなった。
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