西ドイツへの出稼ぎ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 08:40 UTC 版)
マーシャル・プランや朝鮮戦争特需などにより「経済の奇跡」と呼ばれる急成長をしていた西ドイツは、その労働力不足を補うため1963年以降、韓国から多くの鉱夫(派独鉱夫)と看護婦(派独看護士)を受け入れた(なお、日本からは1957年から1965年にかけて炭鉱労働者が送られた)。失業者が公式発表でも250万人を超えていた1963年の第一次派遣には、募集500人に対し4万6000人の応募が殺到するなど、1963年から1978年まで炭鉱労働者7983人を含む7万9000人の鉱夫を派独、看護婦は1966年から1976年の間に1万余人が渡独した。 1964年12月、ルール炭鉱地帯のハムボルン鉱山を訪れた朴正熙大統領夫妻は派独韓国人を慰問、国歌斉唱に涙を流し、「母国の家族や故郷を思い、辛いことが多いだろうが、皆自分が何のために、この遠い異国の地に来たことを肝に銘じ、祖国の名誉を担って一生懸命働きましょう。たとえ、私たちの生前に成し遂げることができなくても、子孫のために繁栄の基盤を築きましょう」と涙ながらに激励演説をしたエピソードが残っている。 派独労働者からの送金額は年間5000万ドルに達し、一時期はGNPの2%台に及んでいた。また、1967年には輸出総額の36%を稼ぎ、ドイツからの借款を獲得するなど外貨の獲得に貢献、韓国経済発展の基盤になった。
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