らんりょう‐インド〔ランリヤウ‐〕【蘭領インド】
オランダ領東インド
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オランダ領東インド(オランダりょうひがしインド、蘭領東印度、オランダ語: Nederlands-Indië、インドネシア語: Hindia Belanda)、通称蘭印は、かつてオランダが宗主国として支配した東南アジア島嶼部に存在した植民地、あるいはその領域をさす名称である。その支配領域は、ほぼ今日のインドネシア共和国の版図にあたる。総督府はバタヴィア(現ジャカルタ)にあった。
- ^ 双方ともバタヴィアであるが、バタヴィアとは古代オランダに住んでいたゲルマン人の一部族、バターウィー族(Batavii)に由来するオランダ地方の古称である。
- ^ イギリス本国がオランダに植民地を返還するとき、ラッフルズはイギリスのジャワ島放棄に反対していた。
- ^ 強制栽培制度がジャワ農村を貧困化したとする議論に対して、強制栽培制度によって農民の生活水準は向上した、と主張する代表的な著作として、R.E.Elson, Village Java under the Cultivation System, 1830-1870, Sydney:Allen and Unwin, 1994.
また、ホワイトやボームハールトは、当該期の生活水準の上昇,天然痘の予防接種の普及などを人口増加の原因として挙げている。 - ^ アフマッド・スバルジョ著、奥源造編訳(1973)『インドネシアの独立と革命』176頁。
- ^ Multatuli, Max Havelaar, of de koffieveilingen der Nederlandsche Handel - Maatschappij, verzorgd en toegelicht door G. W Huygens, 17e druk, Donker, Rotterdam, 1983. 日本語訳は、2003年、『マックス・ハーフェラールもしくはオランダ商事会社のコーヒー競売』(佐藤弘幸訳)めこん、1942年、『蘭印に正義を叫ぶマックス・ハーフェラール』(朝倉純孝訳)として出版された。なお、以下も参照。渋沢元則訳注『マックス・ハーフェラール ムルタテューリ』、大学書林、1989年。
- ^ アフマッド・スバルジョ著、奥源造編訳(1973)『インドネシアの独立と革命』178頁。
- ^ アフマッド・スバルジョ著、奥源造編訳(1973)『インドネシアの独立と革命』32頁。
- ^ 深田祐介 『黎明の世紀―大東亜会議とその主役たち』P.86 文藝春秋、1991年
- ^ a b c 蘭領東印度事情 外務省通商局 1916年
- ^ a b 蘭領東印度事情 外務省通商局 1924年
- ^ a b c 蘭領東印度経済事情 熊田克郎 1935年
- 1 オランダ領東インドとは
- 2 オランダ領東インドの概要
- 3 略史
- 4 行政区画
- 5 関連文献
蘭領東インド
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「K XVI (潜水艦)」の記事における「蘭領東インド」の解説
1935年1月、K XVIはK XVIIと共にニーウェディープ港(英語版、オランダ語版)を出航し、オランダ領東インド(蘭領東インド)へ回航された。2隻はリスボン、ナポリ、アレクサンドリア、アデン、コロンボを経由して、1935年月26日にパダンに到着した。 1940年5月10日、ドイツがオランダに侵攻し5月17日にオランダ政府が亡命した。 1941年(昭和16年)11月18日、K XVIは「K XIV(英語版、オランダ語版)」「K XV(英語版、オランダ語版)と共にスラバヤを出航し、11月22日にボルネオ島北東のタラカンに到着した。蘭領東インド有数の産油地であるタラカンに到着したK XVIIは、同日から12月8日までの予定でタラカン沖を哨戒した。しかし12月2日、K XVIはさらに東方のセレベス海の哨戒を命じられた。
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蘭領東インド
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「K XVIII (潜水艦)」の記事における「蘭領東インド」の解説
1934年11月14日、K XVIIIはオランダ領東インドに回航されるためオランダを出航した。この航海は単なる回航だけでなく、潜水艦と装備品の耐久試験や砲艦外交、便乗した地球物理学者フェリックス・ベニング・マイネスによる洋上での重力測定を兼ねていた。K XVIIIはフンシャル、英領セントビンセント、ダカール、ペルナンブーコ、リオデジャネイロ、モンテビデオ、ブエノスアイレス、マル・デル・プラタ、サイモンズタウン、ケープタウン、ダーバン、ポートルイス、フリーマントルを経て、1935年7月11日にスラバヤに到着した。乗組員には「K XVIIIメダル」が授与された。 1938年9月6日、K XVIIIは姉妹艦と共に、スラバヤで開催されたウィルヘルミナ女王即位40周年記念観艦式に参加した。
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