蘇峻の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/02 17:07 UTC 版)
7月には後趙の石聡、石堪が寿春を攻略して2万戸を北へと連れ去り祖約は歴陽へと逃げ込んだが、配下の後趙への投降が相次ぎ祖約の勢力はほぼ壊滅した。残るは蘇峻のみとなったが9月に入ってなお蘇峻の抵抗は激しく、温嶠らが幾度か攻撃を仕掛けたがいずれも撃退され、長引く遠征に陶侃の兵糧も尽きつつあり、朝廷では一向に士気の衰えない蘇峻の強さを畏れた人間から講和論も出たが温嶠が一喝してこれを抑え、陶侃にも蘇峻討伐が済むまで滞陣するように説得した。 ただ糧道を寸断された蘇峻も追い込まれており、張健、韓晃に命じて郗鑒の建造した3つの塁の一つである大業塁を攻め立てて状況の打破を図った。大業塁では兵糧が枯渇して危機的な状況に陥り、陶侃はこれを救援しようとしたが長史の殷羨が「石頭城を今急襲すれば大業の包囲も解ける」と訴えると陶侃はこの意見を聞き入れ、標的を石頭城へと転換した。陶侃は水軍を率いて石頭城へと向かうと、庾亮・温嶠・趙胤に歩兵数万を与えて白石塁から南下させた。これに対して蘇峻の兵は8,000人ほどであったが、先陣趙胤を破って勢いに乗り更に突撃をかけたものの官軍の備えを破れず、ここで一旦白木陂まで兵を返そうとしたが陶侃の配下である彭世、李千らが投擲した矛が蘇峻の馬に当たり、落馬した蘇峻は官軍に首を刎ねられて大将である蘇峻の死に動揺した蘇峻軍は大敗した。 蘇峻が討たれた事で大業を攻撃していた韓晃らは囲みを解いて石頭城へと撤退し、庱亭を攻めていた管商は庾亮へと投降。任譲は蘇逸を新たな盟主に担いで石頭城に籠城したが以後はもはや官軍優位の趨勢は変わらなかった。
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