藤織り
(藤布 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/26 00:21 UTC 版)
1.丹後地方「丹後藤織り保存会(上世屋)」他複数 2.米沢市「原始布・古代織参考館」 3.奥多摩「武州民族資料館」 4.山国町「工房のむら」 5.三朝町「アトリエ・グリシヌ」 6.津具村「瀞工房」
注釈
- ^ 縄文遺跡から出土している土偶の文様や土器に付着した植物の繊維痕などから、明らかとなっている。
- ^ 弥生時代の遺跡からは全国的に機織りに用いられる道具類や植物繊維が出土している。
- ^ 古代繊維の研究者・布目順朗によれば、藤布でない場合は、楮布か科布である。(名古屋経済大学・市頓学園短期大学自然科学研究会会誌」第36巻第1・2号「木綿以前の衣料(9)藤布について」千田百合子、2002年)
- ^ 10世紀頃から麻に移行していったと考えられている。樹木図鑑(フジ)
- ^ 「紫藤」という漢字表記は本来は中国原産のシナフジのことをさすが、この場合は単純に「紫の花が咲くフジ」をさすものと推測される。
- ^ 『越後野誌』には「皇朝古代ノ喪服也藤布ハコハクシテ貴者難服葛布ヲ用ユ是即藤布也」と、素材の変化の経緯が綴られている。(風俗13-14 「越後の民俗服飾 藤布衣について」山崎光子、日本風俗史学会、1976、73頁。)
- ^ あるいは、たんに鈍色に染めたものを藤衣と称したという説もある。(中江克巳『染織事典』泰流社、1987年、356-357頁。)
- ^ しかし、この27~28年後には海女はほとんどいなくなり、古い藤織りの漁具は廃棄されて化学繊維のものに変わっていた。(竹内淳子「藤布を織る里」、『別冊太陽 日本の布原始布探訪』平凡社、1989年、16頁。)
- ^ フジは対馬には見当たらず、北限は壱岐と考えられている。(後藤為義『西日本 織物の民俗誌』葦書房、1987年、36頁)
- ^ 地域により、「アカフジ」「アカカワ」等と称する。
- ^ 栽培を試みたが、山間部で日照時間が短く、秋の訪れも早いため、綿が結実しなかった。木綿が村に入ってきたのは大正時代以降、藤布の出荷で宮津町へ下りた際に、古着屋で購入したのがはじまりという。
- ^ 駒倉(こまくら)集落は上世屋集落と並ぶ藤織りの一大産地であったが、昭和47年に無人化し、廃村となった。
- ^ 味土野(みどの)は、1582年(天正10年)の夏から約2年間、宮津城主・細川忠興が妻の玉(細川ガラシャ)を幽閉(隠蔽)した地として知られる。豪雪地帯であり、昭和30年代のピーク時には約160人が居住していたが、2007年時点での住民は3戸5人まで減少した。
- ^ 1962年(昭和37年)、古代布ブームのきっかけとなった梅本スガ(明治26年生ー昭和57年死去)をさすものと思われる。
- ^ 「丹後の藤織り」の項で後述する光野タメをさす。1994年(平成6年)に高齢のために山を下りるまで、生活と伝承活動のために藤織りを続けた(国立歴史民俗博物館『よそおいの民俗誌』慶友社、2000、193頁。)
- ^ 小川ツヤ、及び、光野タメの2人
- ^ 上世屋村から出品されたのは無地の藤布で、出品者は「小川與三兵衛」と記録されている。同時に、老富町(現在は綾部市)からも藤布1点が出品されていた。
- ^ 集落の中心部から出火し、1時間20分ほどで村内を焼き尽くしたと伝わる。
- ^ 宮内泰之の恵泉女学園大学園芸文化研究所報告「恵泉 樹の文化史(10)フジ」や川原田林の『NHK趣味の園芸 フジ』によれば、山野に自生するフジ属(ウィステリア属)は日本の固有種であるフジ及びヤマフジ、中国原産のシナフジ、北アメリカ原産のアメリカフジ4種の計7種で、いずれも温帯地域に限られている。このうち園芸植物として世界中に広まっているのは日本及び中国を原産とする3種であり、これらは19世紀にヨーロッパにもたらされた。よって、世界において藤織りが行われた可能性がある地域は中国ほかアジアの温帯地域及び北アメリカ先住民の間に限られ、欧米及び南半球には存在し得ない。また、中国を含むアジア地域で藤織りが行われた痕跡は確認されておらず、現時点では、藤織りは日本固有の伝統技術であると思われる。
- ^ 世屋では「ワタフジ」とも称したが、いわゆる日本固有種の「フジ」を示す。
- ^ 世屋では「シナフジ」と称したが、中国原産のシナフジとは品種が異なる、日本原産の「ノフジ」を示す。
- ^ 丹後地方では「アラソ」と称する。
- ^ 「尋(ヒロ)」は両腕をいっぱいに広げた幅の長さの単位。
- ^ “宮津市「奥波見」”. 2018年5月4日閲覧。
- ^ 弥栄町須川にあった集落と思われる。昭和34年を最後に無人化した。([1] 三舟)
- ^ 昭和38年の豪雪(通称「サンパチ豪雪」)では、積雪は4~5メートルにも達し、村の外灯は雪の下で薄明かりとなって見えたという。
- ^ 「コキバシ」と称される。ヤダケの節2本を藁でV字型に繋いだもので、手の中でそれを握り、蔓を挟んで扱いた。
- ^ 現存する藤織りの技術保持者の多くが「丹後藤織り保存会」から技術を伝承されている。(後述)
- ^ かつては4月18日、近年の資料では4月24日が祭日であったと記載されている。
- ^ 光野タメは、1914年(大正3年)生まれ。生活の糧として藤織りを行っていた最後の人のため「最後の伝承者」と称される。“光野タメと藤織り(写真あり)”. 2018年4月15日閲覧。
- ^ 織機で使用する緯糸の形に糸を巻き直す仕事。1年目の新入りの仕事だった。
- ^ 上世屋16名、下世屋5名、松尾1名の計22名。このなかには、これから藤織りを習得しようと志す未経験者も含まれていた。
- ^ この当時80歳。「てふ」と書いて「ちょう」と読む。明治33年、味土野の生まれ。母親の出身地が上世屋で、幼少期に母とともに上世屋に戻り定住した。(野村隆夫『丹後=ちりめん誌』日本放送出版協会、1978年、162頁。)
- ^ 明治36年生まれ。(野村隆夫『丹後=ちりめん誌』日本放送出版協会、1978年、162頁。)
- ^ 前身は「夢織工房」「手織巧房瑞絹」等
- ^ 1944年(昭和19年)与謝野町生まれ。姉婿の出身地が世屋であったため、世屋に親しみを感じていた。藤布が供給過剰になってきた昭和47~48年頃、世屋の高齢者が「(藤織りを)続けたいけど売れなんだらやめないと」とこぼした言葉をきっかけに、藤織りの継承と販路の確保を志す。(「月刊染織α」No.238 2000年1月号「丹後の古代布は熱く燃えている」富山弘基、42-46頁。)
- ^ 買い取った売れ残りの藤糸は、昭和55年には60キログラムにもなった。(「名古屋経済大学・市頓学園短期大学自然科学研究会会誌」第36巻第1・2号「木綿以前の衣料(9)藤布について」千田百合子、2002年、12頁)
- ^ 1948年(昭和23年)京丹後市生まれ。
- ^ 伝統の技に迫る“藤布”体験
- ^ 丹後織物工業組合による認定で、証紙が交付されている。
- ^ 地元で温泉施設などを運営する市の出資の一般財団法人飯田市南信濃振興公社の協力を得て、2015年に26名で結成された。(日本経済新聞「信越巡って発見。「姫」が紡いだ伝説の藤糸復活」2016-12-29)
- ^ 染織の経験者を含む13名で発足した自然素材を用いた織物の振興団体。「グリシヌ」はフランス語で藤を意味する。
- ^ 大阪出身。20年のサラリーマン生活ののち、1977年(昭和52年)に工房のデザイナーを務める妻の郷里である山国町に移住。生活のためにエビネ採集をしているうちに、葛や藤に着目し、これらを活用した製品を手掛けるようになった。
- ^ 野村徹氏から技法を学んだ後、丹後藤織り保存会の講習も修める。藤織りを用いた創作作品で平成7年に「デザインウェイブ・おおいた」で最優秀の県知事賞を受賞。(「月刊染織α」No.226)
- ^ 明治30年生まれ。
- ^ 現在は、宮津市里波見、または、奥波見という。
- ^ 1976年の名古屋女子大学紀要『被覆構成における素材に関する研究 I』では72地方を確認。
- ^ モジ織が、おさの目1つおきに1目に2本の糸を通して織るのに対し、平織はおさの各目に1本の糸を通すことから「ヒトツイレ」と称した。
- ^ いわゆる「フジ」「ノダフジ」をさす。
- ^ 灰についての出典は「丹後の藤織り」について述べたものだが、この点に差異はないものと思われる(「野の命 身にまとう 日本固有、藤布の伝統紡ぐ」日本経済新聞)。
- ^ 手機の一種で、脚が短い原始的な手機機で、織手は足を投出してすわり、腰に回した帯で布巻を固定させて張り、綜絖 (そうこう) の上げ降ろしは引き綱を足指に掛けて操作した。
- ^ コダナシと称する。
- ^ 鳥取県では金山集落に1名、赤谷集落に3名。島根県は立花集落に1名、古殿集落に2名、清水集落に3名、山之奥集落に1名だった。(石塚尊俊「山陰における藤布の技術伝承」)
- ^ いずれも現在は、三朝町に含まれる。
- ^ 1975年(昭和50年)に、町の指示で集落単位で移転し、消滅した。
- ^ 幅33センチメートル、長さ20センチメートルで、地織(じばた)を用いて織られたもので、布を巻き取る芯に巻き付いて残されていた端切れと思われる。(鳥取県立博物館・加藤隆昭が調査)
- ^ 現在は、若桜町に含まれる。
- ^ 八頭郡智頭町に隣接した山村で、1975年に廃村になった。平家の落人伝説があり県選定伝統的建造物群保存地区ともなっている「板井原集落」はここではなく、この上流に位置する。
- ^ 現在は、松江市鹿島町に含まれる。
- ^ 現在は、松江市八雲に含まれる。
- ^ 現在は、松江市島根町小波と称する。
- ^ この上衣は、麦の脱穀をするときに着用した。
- ^ 現在は、安来市に含まれる。
- ^ この村では明治時代には麻布も織られ、麻糸の生産は大正時代以降も続いた。
- ^ 現在は、安来市に含まれる。
- ^ 現在は、鳥取市に含まれる。
- ^ 須佐村、佐田町を経て、現在は出雲市に含まれる。
- ^ 現在は出雲市松下寄町に含まれる。
- ^ 現在は邑南町に含まれる。
- ^ 現在は邑南町に含まれる。
- ^ 現在は十和田市に含まれる。
- ^ 現在は弘前市に含まれる。
- ^ 糸に撚りをかけて強くするための手動の装置。
- ^ 寝るときに身体に掛けた寝具。
- ^ 現在は、能代市に含まれる。
- ^ 南秋田郡太平村を経て、現在は秋田市に含まれる。
- ^ 「イザリバタゴ」と称した。
- ^ 衣類には、カラムシやアサ(大麻)からも繊維を取って布にしたが、蚊帳に利用したのは藤布のみだった。
- ^ 現在の秋田市の西部、雄物川の左岸に位置する。
- ^ 由利郡石沢村、本荘市を経て、現在は由利本荘市に含まれる。
- ^ 現在は由利本荘市に含まれる。
- ^ この地方の藤織りは、綱織りと呼ばれるものだった。
- ^ 現在の由利本荘市の南西にあたる。
- ^ カラムシやアイコギからも繊維を取っていたほか、麻の栽培や養蚕をさかんに行っていたので、藤織りはそれほど発達しなかったとみられる。
- ^ 現在は、由利本荘市に含まれる。
- ^ 現在は、湯沢市に含まれる。
- ^ 現在は、下閉伊郡の岩泉町に含まれる。
- ^ 作業の際に、袴の裾をすねに巻きつけてひもで結び、動きやすくするのに用いた。「脛巾(はばき)」、後世に「脚絆(きゃはん)」と呼ばれるようになった。
- ^ かつては中閉伊郡だったが、現在は宮古市に含まれる。
- ^ この村では、シナ、クズ、イラクサ及び栽培したアサからも繊維を採って用いていた。なお、岩手県ではシナ(科)皮を「マダ皮」と称し、イラクサは「アエコ」「アイコ」「アエド」等と称した。
- ^ 現在は田野畑村に含まれる。
- ^ 現在は、遠野市に含まれる。
- ^ ブドウ、シナ、イラクサ、アサからも繊維を採って布を織った。
- ^ 現在は、平泉町に含まれる。
- ^ シナも採集して科布を織ったほか、昭和17年頃までは麻も栽培して麻布を織ったが、明治29年頃から木綿が入ってきて衣料に変化が生じ、昭和中期には機織りは完全に廃れた。
- ^ 現在は、一関市に含まれるが、その前は東磐井郡に含まれ、さらに以前は、大津保村に含まれていた。
- ^ この村では、アサ、カラムシも同様に利用したほか、養蚕も行っていた。
- ^ 現在は、大船渡市に含まれる。
- ^ この村では、アサやシナでも布を織った。
- ^ 前述の「原始布・古代織参考館」初代館長
- ^ “摩耶山|やまがた山”. 2018年5月4日閲覧。
- ^ 科布、ぜんまい紬などが多く、新潟県側の産地としては岩船郡[山北町 (新潟県)|山北町]が知られる。
- ^ 現在は、鶴岡市に含まれる。
- ^ 現在は、鶴岡市に含まれる。庄内と内陸を結ぶ六十里街道の要所で、湯殿山信仰が盛んになるにつれて、宿場町的な性格を帯びるようになった。
- ^ この村では麻織りが中心で、明治から大正にかけて麻がさかんに栽培された。
- ^ 裏地のない着物(単衣)のこと。とくに麻で作られたものを帷子(カタビラ)というが、藤布の単衣も多くの地域で「カタビラ」あるいは「カタヒラ」と称された。
- ^ 現在は、二本松市に含まれる。
- ^ この村では並行して、麻や木綿を栽培し、いずれも自家用として大正時代の初め頃まで製織に用いた。
- ^ 現在は、双葉郡に含まれる。
- ^ 現在は、相馬郡に含まれる。
- ^ 成長過程で蔓の表皮が赤みを帯びたフジをさす。現代に伝わる「丹後の藤織り」においても採集の最適期とされている。
- ^ 切込では、綿を購入して布を織っていたが、フジ、アサ、カラムシなど自然から採集した繊維でも布を織っていた。
- ^ 現在は、南三陸町歌津に含まれる。
- ^ 現在は、南三陸町戸倉に含まれる。
- ^ 布が摩擦によって傷むのを抑えるなどの目的や接着剤として、一般には縮緬や羽二重など絹織物の製織時に、乾燥させた後、水を加えて煮て濾した液状のものを使用する。
- ^ 現在は、綱木沢と同じく南三陸町戸倉に含まれる。
- ^ 現在は、村上市に含まれる。
- ^ 漁師兼船乗りとして日本海を往来したほか、沿海に出漁した際も藤織りの衣料を着用した。
- ^ 第一次世界大戦以後、男性は暫時近海または遠洋船路の乗員となり、年間を通して村から離れて働くようになったため、留守を守る主婦の仕事が増え、藤積みに時間をかけられなくなっていったためと考えられている。上海府村では消防団も女性が組織していた。(「越後の民俗服飾 藤布衣について」山崎光子)
- ^ 繊維を繋いで糸にしていく藤積みは、毎晩3時間作業しても1反分の糸を積むのに2週間前後を要するうえ単調な作業であったので、若い娘たちは近所の家に材料を入れた篭を持って集まり、おしゃべりをし、上手な人の見まねをしながら糸を積んだ。噂話のなかで結婚相手の品定めや主婦の心得などの花嫁修業もできた。このような集まりやすい家をオウミ宿、ヨナベ宿、イト宿などとも称し、全国どこでも同様の風習があった。また、麻や科など他の繊維利用でも同様だった。(瀬川清子『日本人の衣食住 日本の民俗2』河出書房、1964年、122頁。)
- ^ 上海府村では近年まで葛をクズフジと称する習慣があったので、当地の藤布が必ずしもフジを用いたとは限らない。(「越後の民俗服飾 藤布衣について」 山崎光子)
- ^ 岩ケ崎、大月、野潟、間島、柏尾、吉浦、早川、馬下の8村で、上海府全土の約50パーセントが標高200メートル以上の山間部にあたる。
- ^ 現在は、南魚沼市に含まれる。
- ^ 現在は、長岡市に含まれる。
- ^ シナ織りも衣料に用いられ、利用された集落の数でいえばシナの方がよく利用されている。
- ^ 丹後は江戸時代以前から絹織物の名産地として知られる。
- ^ 両津市を経て、現在は佐渡市に含まれる。
- ^ ネマリバタと称された。
- ^ 両津市を経て、現在は佐渡市に含まれる。
- ^ 明治22年に高千村に合併された。
- ^ 戸中村、戸地村はかつては雑太郡とよばれた地域に含まれる。入川村、高千村、外海府村は、河崎村と同じく加茂郡とよばれた地域に含まれる。
- ^ 五位山村、福岡町を経て、現在は高岡市に含まれる。
- ^ 織り手が腰布を用いて自分の身体で機を固定して織り進める原始的な腰機の一種で、「ネマリハタゴ」と称した。
- ^ 県北部、能登半島の内陸に位置する。現在は、鳳珠郡能登町に含まれる。
- ^ 現在は、羽咋郡志賀町に含まれる。
- ^ 財布や手巾などの細々した携帯品を入れる手提げ袋。多くは巾着のように2本の紐で上部を開口した。
- ^ 昭和47年に最後の住民が下山し、廃村となった。柳田國男が滞在したことがあると伝わる。
- ^ 「カズ」と称した。
- ^ 『図解染織技術事典』によれば「武州民族資料館」。ZENRIN住宅地図によれば「武州民俗資料館」と表記されている。
- ^ 現在の、相模原市緑区にあたる。
- ^ 世屋(京都府)、関川(山形県)、上講武(島根県)、津具(愛知県)など他の地域では、皮を剥いだ後、いったん藤皮を乾燥させているが、ここでは省かれている。
- ^ 他の多くの地域では、藤積みの前に米ぬかで藤の繊維を柔らかく加工するが、ここでは行われていない。
- ^ 現在の山北町中川の上流。紅葉の名所として知られる。
- ^ 現在は、秩父郡横瀬町。
- ^ 現在は、児玉郡神川町に含まれる。
- ^ この地方では、木綿も栽培や養蚕も明治時代以前からさかんに行われた。
- ^ 南河内村を経て、現在は下野市に含まれる。
- ^ 現在は、古河市に含まれる。
- ^ 猿島郡を経て、現在は坂東市に含まれる。
- ^ この地域では楮も用いた。藤や楮の繊維で織った布は「タホ」と呼び、おもに地機で製織した。
- ^ 現在は、南アルプス市に含まれる。
- ^ 現在は、上野原市に含まれる。
- ^ 現在は、阿智村に含まれる。
- ^ 現在の飯田市の南部に位置する。
- ^ コシッキリと称した。
- ^ 現在は、加茂郡白川町に含まれる。
- ^ いずれも現在は、大垣市に含まれる。
- ^ 津保川とその支流沿いにある谷間の村をさす。
- ^ 現在は、関市に含まれる。
- ^ 現在は、加茂郡八百津町。
- ^ 現在は、郡上市に含まれる。
- ^ この調査が行われた昭和37-39年頃にはクワモリフルシキは使われていた。その後、いつ頃まで使われたかについては調査が及んでいない。
- ^ 現在は、静岡市葵区に含まれる。
- ^ 「サクバキ」、「チョウバキ」等と称された。
- ^ 両村とも、天竜川の支流である水窪川流域の山村に位置した。
- ^ 天竜川の東に位置した。
- ^ 現在は、天竜区の一部にあたる。
- ^ 現在は、榛原郡川根本町に含まれる。
- ^ 清沢村を経て、現在の静岡市葵区西部に含まれる。藁科川の中流域に位置する。
- ^ 現在の浜松市天竜区の東端に位置する。
- ^ 現在は、沼津市に含まれる。
- ^ 現在は、設楽町に含まれる。
- ^ 現在は、松阪市に含まれる。
- ^ 西葛城村等を経て、現在は貝塚市に含まれる。
- ^ 舞鶴市。
- ^ 現在の南丹市美山町の東部にあたる。
- ^ いずれも和知町を経て、現在は京丹波市に含まれる。
- ^ 現在は、福知山市に含まれる。
- ^ 「ハンコ」と称される。
- ^ 平成28年9月14日に閉館。隣接して建設された「京都府立京都学・歴彩館」に資料と図書を移転し、平成29年4月28日に開館した。旧総合資料館閉館のお知らせ
- ^ 「タチカケ」と称される。
- ^ 現在の相楽郡和束町の東で、和束川の上流域に位置する。
- ^ いずれも現在は、高島市今津町に含まれる。
- ^ 5.他の植物が使われた可能性が高い「藤布」の項で述べる。
- ^ 現在は、高島郡朽木村に含まれる。
- ^ この地域では、葛藤でも藤織りを行っている。(後述)
- ^ フジは繁殖力がひじょうに強く、植林したスギやヒノキに害をなすので、林業のさかんな地域ではとくに積極的に採集(除去)が奨励された。(有岡利幸『花と樹木と日本人』八坂書房、2016年、273頁。)
- ^ 十津川村の南東端、和歌山県や三重県との県境に位置した集落。
- ^ 十津川村の北部、風屋ダム近郊に位置した集落。
- ^ 男性が着物の上から重ねて着る、袖のある外套のこと。「捩り」と書く。
- ^ 標本番号H0235327
- ^ 十津川の支流である舟ノ川の流域に点在する集落のなかで、もっとも古くに作られた、もっとも奥深い所に位置する集落。無形民俗文化財「篠原踊」で知られる。
- ^ 篠原の下流に位置し、篠原の分村として誕生した集落。「惣谷狂言」で知られる。
- ^ 現在は、有田川町に含まれる。
- ^ 現在は、有田川町に含まれる。
- ^ 大塔村を経て、現在は田辺市に含まれる。
- ^ この村では、ほかに、麻、木綿、ヘチマ、絹でも布を織っていた。
- ^ 現在は、大佐上刑部村に含まれる。
- ^ 現在は、苫田郡鏡野町に含まれる。
- ^ 現在は、真庭市に含まれる。
- ^ 「ヤマアワセ(山合わせ)」の訛った発音で、山仕事に着る上衣をさすものと思われる。
- ^ いわゆるコキハシ(扱き箸)にあたるものと思われる。
- ^ 大野原町を経て、現在は観音寺市に含まれる。
- ^ 秋葉山 〒795-0078愛媛県大洲市田処
- ^ 現在は、大洲市に含まれる。
- ^ 喜多村は1908年(明治41年)に合併により消滅しているので、明治時代以前に行われたと推測される。
- ^ 現在は、松山市米野町に含まれる。
- ^ 現在は、西宇和郡伊方町に含まれる。
- ^ 現在は、長岡郡大豊町に含まれる。
- ^ 現在は、安芸郡馬路村に含まれる。
- ^ 東川村を経て、現在は安芸市に含まれる。
- ^ かつては槙山村含まれた。
- ^ かつては美良布町含まれた。
- ^ 現在は、幡多郡大月町に含まれる。
- ^ 現在は、三好市東祖谷に含まれる。
- ^ 下分上山村を経て、現在は神山町に含まれる。
- ^ 板野郡を経て、現在は鳴門市に含まれ、瀬戸内堂浦となる。
- ^ 現在は、いずれも唐津市に含まれる。
- ^ 明治新政府が旧武士層の生活救済のために行なった施策で、士族に俸禄を支給できなくなった代わりに農業あるいは商業の道につかせるための種々の保護を行った。
- ^ 新潟県との県境に位置し、現在は、鶴岡市に含まれる。
- ^ 那珂郡八里村を経て、現在は常陸大宮市に含まれる。
- ^ 三谷村、今津町を経て、現在は高島市に含まれる。
- ^ 男性は麻で織ったものを着た。
- ^ 現在は、苫田郡鏡野町に含まれる。
- ^ 現在は、真庭市に含まれる。
- ^ フジは繊維を採るに適した太さに育つのに4~5年かかるところ、ここでは1年目と明記されていることから、フジとは異なるつる性植物である可能性が高い。あるいは、栽培品種の剪定によって生じる蔓を用いたとも推測される。山梨県では、平安時代にはブドウを庭に植えた記録が残り、江戸時代初期にはさかんに栽培されるようになっていた。(甲州文庫 山梨とぶどう年表)
出典
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