英国人名事典
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『英国人名事典』(英: Dictionary of National Biography; DNB)は、1885年に発行された、イギリスの歴史上著名な人物の人物録である。更新版の『オックスフォード英国人名事典』(英: Oxford Dictionary of National Biography; ODNB)[1][2]が2004年9月23日に60巻で刊行され、現在ではオンラインで閲覧できる[3]。
注釈
- ^ 独: "Allgemeine Deutsche Biographie". 訳題を付けるとすれば『ドイツ伝記全集』となる。
- ^ 英国人名事典の編集者一覧を参照のこと。
- ^ 英: "from the earliest times to the year 1900"
- ^ 原文:"[The dictionary had] proved of inestimable service in elucidating the private annals of the British" [4]
- ^ 英: Bulletin of the Institute of Historical Research. ロンドン大学の Institute of Historical Research(=歴史研究所)で発行されている学術雑誌。現在は "Historical Research" との名称で発行されている。
- ^ 例としてダグラス・クーパーの項目が挙げられる[7]。
- ^ アメリカ合衆国独立前に、英国が支配していた13の植民地。これらはアメリカの独立時に州となり、13独立州とも呼ばれる。
- ^ 「機能的には帝国の一部だったが、『英国固有の文化』とは言えない」(英: They were functionally part of the Empire and not of "the indigenous culture")と導入部に記載がある[要出典]。
- ^ 原文:"the two epochs in collaboration might produce something more useful for the future than either epoch on its own"[要出典]
出典
- ^ oupacjapanのツイート(81224513416728577)
- ^ “oupjapan_book_brochure.pdf” (PDF). オックスフォード大学出版局. 2016年5月21日閲覧。
- ^ “紀伊國屋書店が提供するOxford Dictionary of National Biography Online”. 紀伊國屋書店. 2016年5月20日閲覧。
- ^ a b c d Gosse, Edmund William [in 英語] (1911). . In Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 3 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 954. ※DNBはこの記事の最終パラグラフに登場する。
- ^ a b "History of the Dictionary of National Biography". Oxford Dictionary of National Biography (英語). 2020年8月25日閲覧。
- ^ University of London Institute of Historical Research (1966). Corrections and Additions to the Dictionary of National Biography, Cumulated from the Bulletin of the Institute of Historical Research Covering the Years 1923–1963. Boston: G. K. Hall. OCLC 496014268
- ^ Lee, Sidney (1920) [1906]. "Cowper, Douglas". The Concise Dictionary of National Biography: from the beginnings up to 1911 being an epitome of the Main Work and its supplement 1901–1911 (英語) (second ed.). London: Smith, Elder. p. 288.
- ^ Stefan Collini (20 January 2005). "Our Island Story". London Review of Books. 2016年5月20日閲覧。
- ^ Thorpe, Vanessa (6 March 2005). "At £7,500 for the set, you'd think they'd get their facts right". The Observer.
- ^ "Dartmouth Medal". Reference and User Services Association. 2016年5月21日閲覧。
- ^ JAMES RAVEN, UNIVERSITY OF ESSEX. “The Oxford Dictionary of National Biography: Dictionary or Encyclopaedia?”. The Historical Journal. 50, no. 4: 991–1006 2016年5月21日閲覧。.
- ^ "David Cannadine is the new Editor of the Oxford DNB". Oxford University Press. 1 October 2014. 2016年5月21日閲覧。
- 1 英国人名事典とは
- 2 英国人名事典の概要
- 3 縮約版事典
- 4 関連項目
英国人名事典
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卒業直後はまず1882年秋より第5代ポーツマス伯爵アイザック・ニュートン・ウォロップの息子オリヴァー・ヘンリー・ウォロップ(英語版)(後の第8代ポーツマス伯爵)の家庭教師を務めたが、ジェントルマンズ・マガジンへの寄稿がジェームズ・ハリウェル・フィリップス(英語版)やフレデリック・ジェームズ・ファーニヴァル(英語版)の目に留まり、ファーニヴァルはリーに英国人名事典の副編集長募集に応募するよう勧めた上、自身も1882年11月にスティーヴンに手紙を書いてリーを紹介した。 英国人名事典の編集は1882年秋にレズリー・スティーヴンが編集長に任命されるとともに始まり、1883年1月に事典に含まれるべき、姓がAから始まる人物の一覧が出版されたほか、同1883年3月にはスティーヴンがリーを副編集長(assistant-editor)に任命した。以降1889年12月までに21巻が出版されたが、長年の激務にスティーヴンの健康が悪化したため、リーは1890年初にスティーヴンと共同で編集長を務めるようになり、1890年3月から1891年3月にかけて第22から26巻を出版した。このとき、ファーニヴァルはリーに「事典だけで精一杯だろうから、出版社にほかの本を書くことをそそのかされないように。」と手紙で忠告し、リーも実際に夜や週末でも長時間働いた。スティーヴンの健康がその間にも好転しなかったため、彼は1891年春に編集長を辞任、リーが単独で編集長を務めた。その後、スティーヴンは回復して事典への寄稿を再開したが、編集長に復帰することはなく、リーは1900年に最終巻である第63巻が出版されるまで編集長を務めた。リーは編集長を務める傍ら、事典に数多くの寄稿を行い、記事820件(合計で約1,370ページ、3巻分)を書き上げた。リーの姉エリザベス(英語版)も寄稿したほか、1885年から1900年まで出版された63巻のうち、最も長い記事であるウィリアム・シェイクスピアの記事(49ページ)はリーが書いたものである。 事典の出版が1900年6月に終了したことは宴会で祝われるほどの大事になり、1900年5月のディナーパーティーではウェールズ公エドワード(後の国王エドワード7世)が出席したほどだった。このとき、リーがエドワードから「シェイクスピアについて著作を書いていると聞いています。是非とも頑張ってください。シェイクスピアは儲かるぞ」と言われたという逸話がある。 英国人名事典の初版を出版した後、リーは増補巻の編集にとりかかった。最初は19世紀の終わりまでに死去した人物を含めると定めたが、1901年1月22日にヴィクトリア女王が死去すると計画を変更して、1901年1月22日までに死去した人物を含めるようにした。リー自身もヴィクトリア女王の記事を寄稿した。その後、1903年に事典の縮約版を、1904年に正誤表を編集した。1911年7月6日には騎士爵に叙されており、このことを報じる官報のロンドン・ガゼットでは「英国人名事典の編集長」として紹介されている。 増補巻第2シリーズ(1912年出版)の編集にも関わり、リー自身が第2シリーズに寄稿した記事としてエドワード7世の記事が挙げられる。このエドワード7世伝ではエドワード7世を「知性に欠く」(want of intellectual equipment)などと酷評していたため、王室家政の官僚やエドワード7世妃アレクサンドラの不興を買い、リーは修正を求められた。リーは王室からの圧力を受けた修正版の公表を拒否したが、機密文書を閲覧した上で新たな回想録に執筆することに同意した。しかし、回想録が完成をみないうちに第一次世界大戦が勃発、エドワード朝の外交政策の公表が憚られたため、執筆は終戦まで中断され、結局2巻からなる回想録が出版されるのは1925年から1927年にかけてのこととなった。
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