若き首相
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:24 UTC 版)
「ハインリヒ・ブリューニング」の記事における「若き首相」の解説
1924年、国会議員に初当選し、中央党議員団の財政政策スポークスマンに就任。1925年、所得税を12億ライヒスマルクに限るという「ブリューニング法」を提出。彼自身はきわめて控えめで禁欲的な人物だったが、その専門知識から政治家としての声望が高まった。そのため1929年には党議員団長に就任。ヤング案に対して国内で増税と緊縮財政が行われる場合にのみ賛成するという立場を示したが、この首尾一貫した政策がヒンデンブルク大統領の注目を引いた。 折しもドイツ社会民主党(SPD)のヘルマン・ミュラー首相が退陣して後任探しが行われたが、大統領の相談役でもある国防次官クルト・フォン・シュライヒャーの勧めもあり、ブリューニングに白羽の矢が立った。SPDとの大連立が模索されたが、ヒンデンブルクがSPDの政権入りを好まないこと、またブリューニングがSPDと対立するドイツ人民党との連立を最終的に決めたことから、SPD側が連立を拒絶した。1930年3月28日、ヒンデンブルク大統領は正式にブリューニングに組閣を指示、組閣作業は異例の速さで進み4月1日に完了した。連立に加わったのは中央党のほかドイツ国家党、ドイツ人民党、経済党、そしてドイツ国家人民党の一部だった。首相就任時の44歳という年齢はドイツ史上2番目の若さである。ヒンデンブルクは議会に対立する強力な半独裁政権、そして反マルクス主義的な政権が樹立されることに期待した。
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