自由の回復
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 15:23 UTC 版)
「ソロモン・ノーサップ」の記事における「自由の回復」の解説
バスはノーサップのため複数の手紙を書き、うち1通はサラトガでノーサップと知り合いだった商店主シーファス・パーカーとウィリアム・ペリー(英: Cephas Parker and William Perry)の元へ届けられた。2人のどちらかがノーサップの妻アンへと手紙を転送し、彼女はミンタスの主人の息子で弁護士のヘンリー・B・ノーサップへ連絡を取った。ヘンリー・Bはニューヨーク州知事だったワシントン・ハント(英語版)に連絡し、ノーサップの法的代理人として司法長官と面会した。1840年(英語版)のニューヨーク州議会で成立した法律では、誘拐され奴隷にされたアフリカ系住民を州政府が援助することだけでなく、逃亡奴隷とされている人に対しても陪審裁判を行う保証も盛り込まれていた。ノーサップの家族に手紙が届いた後、彼を救出しようとする人々はノーサップの居場所を探す必要があったが、これは手紙が間違った人に渡った場合を恐れてノーサップが一時的に身を隠そうとしていたことと、バスが彼の本名を使わなかったことが原因である。ノーサップの友人たちは、彼がニューヨーク州に住む自由黒人であるという証明書を見つけ、ヘンリー・B・ノーサップはソロモンを知る人々から宣誓供述書を集めた。この間、ノーサップはバスに託した手紙が誰かに届けられたのか知らないままだった。連絡を取り合うこともできなかったが、これは秘密を守るため、またノーサップの主人に計画が露見しないようにするためだった。バスは移動労働者で、ルイジアナ州に友人と同居していた有色人種の女性がいたものの、妻と子どもたちはカナダに残したままでルイジアナに家族はいなかった。ヘンリー・B・ノーサップは、数回目の手紙のやりとりで、やっとバスからソロモンがエドウィン・エップスの農園で働かされていることを聞き出した。その後ヘンリーは、マークスヴィル(英語版)(アボイルズ郡の郡庁所在地)にいる郡保安官宛に、法律を遵守し彼を解放するよう求める警告書を提出した。 ルイジアナ州選出の上院議員ピエール・スーレ(英語版)や地元当局の助けを受け、ヘンリー・B・ノーサップは1853年1月1日にマークスヴィルに到着した。ルイジアナ州では奴隷としての名前「プラット」で通っていたため、当初ソロモンの捜索は難航した。弁護士がエップスに対し、ノーサップが妻や子どももいる自由黒人であるという証拠を見せると、エップスは購入時にはそんなことは知らされていなかったと主張した。エップスはノーサップに力を貸した人物が誰か言うよう迫ったが、ノーサップは頑として口を割らなかった。ノーサップは後に、「[エップス]は自分の損害以外何も考えておらず、わたしが自由黒人として生まれたことをひどく罵った」と記録している。ヘンリー・B・ノーサップはエップスに対し、自由証明書に関して法廷で戦うのは無益だと納得させ、エップスも渋々これを認めて、ノーサップへのあらゆる権利を放棄する証書にサインした。バスにあってから4ヶ月後の1853年1月4日、ノーサップは遂に自由の身となった。
※この「自由の回復」の解説は、「ソロモン・ノーサップ」の解説の一部です。
「自由の回復」を含む「ソロモン・ノーサップ」の記事については、「ソロモン・ノーサップ」の概要を参照ください。
- 自由の回復のページへのリンク