膽澤
名字 | 読み方 |
膽澤 | いさわ |
膽澤
姓 | 読み方 |
---|---|
膽澤 | いさわ |
胆沢
胆沢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 09:16 UTC 版)
「近代以前の日本の都市人口統計」の記事における「胆沢」の解説
『日本後期』によると延暦21年(802年)に坂上田村麻呂によって胆沢城が造営されると、鎮守府が多賀城より移設され、浪人4000人が配備された。最盛期の弘仁元年(810年)には鎮守軍卒が3800人を数えた。
※この「胆沢」の解説は、「近代以前の日本の都市人口統計」の解説の一部です。
「胆沢」を含む「近代以前の日本の都市人口統計」の記事については、「近代以前の日本の都市人口統計」の概要を参照ください。
胆沢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/22 05:45 UTC 版)
征夷大将軍の坂上田村麻呂は、延暦21年(802年)に胆沢城を、延暦22年(803年)に志波城を築いた。築城と同時か数年後に鎮守府は胆沢に移転した。正確にいつかは不明である。胆沢の前に志波に置かれた時期があったかもしれないともいわれる。以後の鎮守将軍は、陸奥国府から離れて胆沢で勤務することになった。 移転以前の鎮守将軍は、陸奥守や陸奥按察使が兼ねることが多く政軍両権を併せ北方の鎮めにつく役職であったが、移転後は専任となり陸奥守よりやや格が下がることになった。行政官化した将軍の職権が国司の職権と重複する部分もあり、将軍と国司の激しい対立がしばしば起きた。このため、鎮守府将軍は早期に、優れた武士に与えられる名誉職と化し、鎮守府に居ることも少なく、陸奥鎮守府は陸奥国府より早く一旦実質的に機能しなくなった。 しかし、前九年の役、後三年の役の発生により、秋田城の機能も鎮守府に吸収されたため、現地の指揮官として出羽国にも及ぶ軍事指揮権を与えられ復活したとする見解がある。一方で鎮守府将軍自体ではなく清原氏が鎮守府、秋田城双方の在庁宮人を掌握していたのであって、その上に陸奥守がいたとする見解もある。
※この「胆沢」の解説は、「鎮守府将軍」の解説の一部です。
「胆沢」を含む「鎮守府将軍」の記事については、「鎮守府将軍」の概要を参照ください。
胆沢と同じ種類の言葉
- >> 「胆沢」を含む用語の索引
- 胆沢のページへのリンク