総国
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/11 14:29 UTC 版)
総国(ふさのくに、捄国)は、上古の坂東の国。現在の千葉県を主たる地域とし、茨城県や東京都の一部にわたる律令制以前の旧国名[1]。
注釈
- ^ a b 大宝4年(704年)に、全国の国印が一斉に鋳造された際、改められたものと考えられている(『日本古代史地名事典』「上総国」の項)。
- ^ 武社国には、6世紀中葉から7世紀初頭にかけ、小池・芝山古墳群、大堤・蕪木古墳群、胡麻手台古墳群、板附古墳群を造営した4つの勢力があったと考えられている(『東国の古墳と古代史』「上総・駄ノ塚古墳」の項)。
- ^ 他に「総」の語源として、フサグ(塞)の語幹で「何かをさえぎる地」のこと、ボサの転で「雑草などの茂み、やぶ」の意、フシ(節)の転で「高所」のこと、クサ(朽、腐)の転で「崩壊地形」を示すなどの説があるが、あくまでも仮の説である(『地名用語語源辞典』「ふさ」の項)。
- ^ 藤原京から木簡が出土した当初は、「上挟国阿波評松里」と解読されていたが、その後の研究で「上捄国阿波評松里」に解読し直された(挟→捄)。
- ^ 下総国海上国造の後裔を称する他田日奉神護が、正倉院文書に遺した「他田日奉部直神護解」には、神護の祖父忍が孝徳期に少領であったことが書かれており、香島評立評に際してこれに同意したことがうかがえる(『古代豪族と武士の誕生』「乙巳の変と評制の施行」の項)。
- ^ ただし、令制国としての上総国・下総国の成立は、他の令制国と同じく律令制の確立によるものとされる。
出典
- ^ 『日本大百科全書』「総国」の項
- ^ a b 『千葉県の歴史』「千葉と房総三国の名の由来」の項
- ^ 長狭国造は『古事記』・千葉国造は『日本後紀』より、他の国造は『旧事本紀』の「国造本紀」より
- ^ 『古代東国の風景』「大和王権と房総」の項
- ^ a b 『日本古代史地名事典』「上総国」の項
- ^ 『古代地名語源辞典』「武蔵」の項
- ^ 『関東学をひらく』「政商・漆部伊波のこと」の項
- ^ a b 『藤原京』「藤原京出土の木簡が、郡評論争を決着させる」
- ^ 『千葉県の歴史 通史編 古代2』第1編第2章「房総三国の成立」
- ^ 『帝王編年記』巻7 安閑天皇元年(101頁)
- ^ 『古代地名語源辞典』「総」の項
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