第7回十字軍との戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 19:34 UTC 版)
「第7回十字軍」も参照 1249年にフランス王ルイ9世率いる第7回十字軍がエジプトに上陸し、ナイル河口の港湾都市ダミエッタを占領した。病身のサーリフはダミエッタ南西のマンスーラに陣営を構えて迎撃の準備にとりかかるが、同年11月にサーリフは陣没する。十字軍がダミエッタに上陸した時、バフリー・マムルークの長であるアクターイが不在であったため、一時的にバイバルスがバフリー・マムルークの指揮を執った。 1250年2月、アイユーブ軍の指揮官ファクルッディーンはルイ9世の弟ロベールの奇襲を受けて戦死し、ロベール率いる騎兵隊は本陣のファクルッディーンを撃破した後、マンスーラ市内に突入した。しかし、マンスーラ市内に入った騎兵隊は、バイバルスが率いるバフリー・マムルークの反撃にあって壊滅し、ロベール自身も戦死を遂げる(マンスーラの戦い)。マンスーラでの勝利からバフリー・マムルークを先頭とするアイユーブ軍の反撃が始まり、さらにイラクから帰国したサーリフの王子トゥーラーン・シャーによって十字軍の補給路が絶たれる。物資の欠如と疫病により十字軍は追い詰められていき、1250年4月にアイユーブ軍はファルスクールの戦い(英語版)でルイ9世を捕虜とした。 マンスーラの戦いの後、スルターンに即位したトゥーラーン・シャーは、バフリー・マムルークたちを追放・投獄し、自身の側近を重用した。マムルークとトゥーラーン・シャーの対立は深まり、バイバルスはバフリー・マムルークの長アクターイ、カラーウーン、イッズッディーン・アイバクらとトゥーラーン・シャー暗殺を企てる。1250年5月2日にファルスクールでトゥーラーン・シャー暗殺が決行され、最初にバイバルスがトゥーラーン・シャーを斬りつけた後にアクターイが致命傷を与え、計画は成功を収める。 トゥーラーン・シャーの死後、バフリー・マムルークに推戴されたサーリフの寡婦シャジャル・アッ=ドゥッルがスルターンとなり、マムルーク朝が成立する。
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