第5次囲剿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/16 06:56 UTC 版)
蔣介石は第1次 - 第4次の失敗は、兵力の分散と不慣れなゲリラ戦に対応できなかったこと、さらには紅軍の装備が貧弱であることから軍隊としての能力そのものも低いであろうと見くびっていたことにあると判断した。1933年春の第5次囲剿ではトーチカ群と経済封鎖を利用した軍事三分、政治七分の戦術を展開し、同年夏からその効果を示し、1934年初頭から投入された中央軍、広東軍、湖南軍135万に紅軍は耐えられず、同年11月から江西中央ソビエト区を放棄して「長征」を開始した。 国民革命軍の包囲網に対し、当時共産党の実質的最高指導者であった秦邦憲はコミンテルンより派遣された軍事顧問オットー・ブラウン(中国名:李徳)の提言を鵜呑みにし、塹壕戦を展開した。周恩来・鄧小平・毛沢東らは、圧倒的優位な包囲軍に対して塹壕戦を展開するのはあまりに無謀であると反対したものの、党中央の決定は覆らず、ここに中国史上初めての中国人同士による近代的塹壕戦が展開されることとなった。 秦邦憲の考えは、「この戦いは国民党と共産党の最終決戦であり、また瑞金中華ソビエト地区の経済基盤は脆弱そのもので、戦闘を繰り返せば疲弊し、戦わずして根拠地を喪失する、よって短期に決戦を挑む、ここで勝利できなければ革命そのものが敗北する」というものであった。また、ブラウンは第一次世界大戦・ロシア革命を戦ったソ連の陸戦を模範にした軍事顧問であり、ゲリラ戦を展開する紅軍に苛立ちを覚えていたという。[要出典] しかし、兵力・装備とも圧倒的に不利な紅軍は順次防衛線を後退させ、ついに防衛線は首都瑞金の北辺まで後退した。1934年4月の広昌失陥に際しては1万以上の兵力を失う大敗を喫し、瑞金の陥落は避けられない情勢となった。
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