第1期の製作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 01:17 UTC 版)
「トーチー・ザ・バッテリー・ボーイ」の記事における「第1期の製作」の解説
私は二本のワイヤを接触させたが、何も起こらなかった。「カット!」「撮影開始!」 再び二本を接触させたが、何も起こらなかった。これが大きな撮影だったらから心配になった。私の右側には華麗な柱があって10アンプのプラグが埋め込まれていた―2つの真鍮製の穴だ。今回は二本のワイヤをそこにつっこんだ。とてつもない光が起きて、しばらくの間何も見えなかった。全ての火花が点火され、大量の煙が出て、誰もが叫び大声を上げていた。そして画面の端まで上昇させ、最初の特撮映像が完成した。少々素人くさかったが、ついにやったんだ。 — 初めての特撮について回想するジェリー・アンダーソン 前作『ジ・アドヴェンチャーズ・オブ・トゥイズル』の後に破産の危機にあったAPフィルムズは外部の仕事を引き受けて会社をなんとか存続させていた。そして再びロバータ・リーから番組制作の依頼を受けたAPフィルムズは、1958年に本作の5本のパイロット版エピソードを製作し始めた。今回は『ジ・アドヴェンチャーズ・オブ・トゥイズル』のときの張り子ではなくケミカル・ウッド(成形用素材)を用いて人形は製作された。また、後にスーパーマリオネーションの特徴となるリップ・シンク装置の原型となるものが人形師クリスティーン・グランヴィルによって製作された。それは糸で動かすことのできる口であったが、その可動のための隙間を埋めるために革が用いられた。グランヴィルは前作の人形師主任ジョイ・ローリーが他作に関わることで本作で主任を引き継いだ。その補助には前作に引き続きマレー・クラークの他、新しくメアリー・ターナーが参加した。 8月までにパイロット版が製作されるとロバータ・リーはAPフィルムズとの関係を一度は絶ったが、9月に2万7千ポンドの予算で残りの21話の製作を依頼した。1958年10月の契約では翌1959年1月から7月まで月に3話ずつ製作することとされた。 台詞はスタジオとなっていたマナーハウスのアイレット・パークの寝室で録音された。録音技師のジョン・テイラーは許可無しで部屋の改造ができなかったため「毛布を壁に引くことで部屋を無響室とした」と証言している。声は前作とは異なりケネス・コナー(英語版)、ジル・フロイド(英語版)、オルウィン・グリフィズ、パトリシア・サマーセットの4人が担当した。 トーチーには後のアンダーソン夫妻の作品に受け継がれるもの、つまりロケットの発射がある。ジェリー・アンダーソンはこの撮影について「素人くさかったが、ついにやった」と後年回想している。 製作は1959年3月に完了し、ロバータ・リーは再びAPフィルムズに第2期を発注したが、スタジオは辞退した。リーのやり方にスタジオは反対していた上、ジェリー・アンダーソンはリーに依存すべきでないと感じていた。ロバータ・リーが紹介した作曲家のバリー・グレイはAPフィルムズに強い興味を持ち続け、自らの人形劇の構想をAPフィルムズに持ち込んでいた。1958年11月にはこの新番組のために新しい人形師ロジャー・ウッドバーンが雇われロバータ・リーに感づかれないように仕事を行わせた。ロバータ・リーとの別れは、1959年10月にAPフィルムズの「AP」つまりジェリー・アンダーソンとアーサー・プロヴィスの別れもやがて引き起こすこととなる。
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