第二次戦争
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紀元前415年にアテナイは主戦論を唱えるアルキビアデスの主導でシケリア遠征を決定し、これによって戦争が再開されることとなった。しかし、シケリア遠征は彼我の距離を無視した無謀とも言える遠征であった。同年にシケリアの戦局がアテナイ側不利に傾き始めたのを機にペロポネソス同盟はアテナイへの穀物の供給地として重要なデケレイア(英語版)を占領した。大兵力を投入したアテナイ軍の二次に及ぶシケリア遠征軍が壊滅、失敗に終わったことにより、デロス同盟の被支配市から離反が相次ぎ、情勢はペロポネソス同盟優位に傾いていった。 アテナイは予想外の耐久力を発揮し、依然エーゲ海でペロポネソス同盟と渡り合った。アテナイはいくつかの海戦で勝利を収めるものの、大勢は決しており逆転するには至らなかった。紀元前405年、ケルソネソス半島(英語版)(今日のトルコ領ゲリボル半島)を流れるアイゴスポタモイ川(英語版)の河口付近でアイゴスポタモイの海戦が勃発した。この海戦では、食料調達のために上陸し、休息を取っていたアテナイ軍をリュサンドロス率いるペロポネソス同盟軍が急襲し勝利を収めた。この勝利により黒海方面の制海権を完全にペロポネソス同盟が掌握、同時にアテナイ市への食料供給路を断った。翌紀元前404年にはアテナイ市が包囲され、アテナイの降伏を以って戦争は終結した。
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第二次戦争(1294年–1299年)
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「ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争」の記事における「第二次戦争(1294年–1299年)」の解説
「クルツォラ戦争」も参照 両国の対立は1291年の衝突を生み、1295年には公式に戦争が再開された。序盤こそヴェネツィアが優勢だったが、後半になるとジェノヴァが圧倒する展開となった。1294年にはヴェネツィア艦隊がジェノヴァを目指したが、キリキア・アルメニア王国のライアッツォなどの東方植民地からかき集められたジェノヴァ艦隊がこれを撃滅した。しかし1296年になるとジェノヴァで内紛が発生して艦隊を集結できなくなり、ヴェネツィア艦隊はエーゲ海のポカイアや黒海のカッファなどのジェノヴァ植民地から抵抗を受けずに略奪し、コンスタンティノープル郊外の防備が無い植民地ペラを焼き払った。 1297年になるとヴェネツィアは戦争をやめようとしたが、1298年にアドリア海に侵入したランバ・ドリア率いるジェノヴァ艦隊と戦わざるを得なくなった。両軍合わせて160隻以上のガレー船が衝突した、ヴェネツィアとジェノヴァの間で行われた最も規模の大きい戦闘であるクルツォラの海戦において、アンドレア・ダンドロ率いるヴェネツィア艦隊は大半の艦を失う壊滅的敗北を被った。しかしジェノヴァ側も手ひどい損害を受け、またリグリアでの抗争が収まらないのもあって、ランバ・ドリアはヴェネツィア本国へ進まずジェノヴァへ帰還することにした。この翌年にミラノ条約が結ばれ終戦した。マルコ・ポーロがヴェネツィア軍で戦って捕虜となり、牢屋で東方見聞録を著したのはこの第二次戦争である。
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