竹宮惠子との出会い
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1970年の春、竹宮惠子は講談社・集英社・小学館の3社の連載を掛け持ちし、そのことが招いた缶詰状態の中で同じ少女漫画家の萩尾望都に知り合い、仕事を手伝って貰ったことがある。その時萩尾は練馬区大泉のペンフレンドであった増山の家に泊まっており、ほどなくして、増山と竹宮は知り合うことになる。増山と初めて会った際、竹宮は自分の知らないことをたくさん知っている人という感じがした、という。 竹宮惠子が本格的に漫画家活動をするようになり、上京したのち、増山に折を見て電話をするようになっていた。増山が浪人生なので最初は遠慮しつつ会っていた、という。なお、竹宮の作品について、増山は当初、少年物でも少女物でもない中庸をゆくような作品を描いていたので、反感を持っていたのだという。『COM』誌が好むような作品を描いている、計算高い人間であると感じていたそうである。 増山自身も漫画を描いていたが、萩尾や竹宮の絵を見て諦めたそうである。 増山も竹宮惠子同様、中学のころから少年に興味を持ち、少年合唱団やブラスバンドのグループ、剣を持って戦う少年たち、ピーターパン、稲垣足穂の『少年愛の美学』などに二人で意気投合していた。
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