立候補、初の選挙戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 04:25 UTC 版)
「オットー・フォン・ハプスブルク」の記事における「立候補、初の選挙戦」の解説
ある日、親しい友人で欧州議会議員のハインリヒ・アイグナー(ドイツ語版)から、欧州議会議員に立候補すべきだと勧められた。オットーは非常に評価していたフランツ・ヨーゼフ・シュトラウスの意に反する行動をしたくなかったため、「オーストリア国籍を手放したくない」という理由でいったん断った。やがてシュトラウスがオットーの立候補を快く思っていることが伝えられたが、今度は出馬するにあたって国籍が問題になった。 オットーの立候補の動機は、オーストリアではほとんど理解されなかった。そのためオーストリア以外から出馬せねばならなかったが、当時は二重国籍を有する人はほとんどいなかった。オットーは1978年に大慌てで西ドイツ市民になった。西ドイツの国籍を得られたのは、立候補の最終受付日の前日のことであった。ドイツ国籍を得たオットーは、公式の名前を「オットー・フォン・ハプスブルク」とした。オットーの政界入りを非難する声はドイツでも多くあり、以下はその代表例である。 「もし70年前に退位した王家の一員が再び政界に入ったら、それはヨーロッパにとって恐ろしい出来事である」(元ベルギー首相ガストン・アイスケンス) 「オットー・フォン・ハプスブルクは、ドイツにとって哀れな名刺のようなもの」(当時の西ドイツ首相ヘルムート・シュミット) 特にドイツ社会民主党党首ヴィリー・ブラントは、選挙中にオットーに付きまとい、ビアホールや居酒屋で話されるようなオットーの言葉遣いはストラスブールでは論外だと非難した。 オットーは、バイエルン州第一党の(西ドイツ)キリスト教社会同盟から、1979年7月19日に欧州議会議員となった。
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