あきた‐らんが〔‐ラングワ〕【秋田×蘭画】
秋田蘭画
読み方:アキタランガ(akitaranga)
秋田蘭画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/22 01:00 UTC 版)
秋田蘭画(あきたらんが)は、江戸時代における絵画のジャンルのひとつで、久保田藩(秋田藩)主や藩士を担い手とした、西洋画の手法を取り入れた構図と純日本的な画材を使用した和洋折衷絵画である。秋田派ともいう。安永年間(1772年 - 1781年)に久保田藩で成立したが、後継者もなく天明年間(1781年 - 1789年)には廃れた。しかし、その極端な遠近法は後代の浮世絵にも大きな影響を与えたとされる。代表的な画家に、藩士小田野直武(1749年 - 1780年)、藩主佐竹曙山(1748年 - 1785年)、その一族佐竹義躬(1749年 - 1800年)がいる。
注釈
- ^ 自然のもたらす風景が遠景、中景、近景では大気の濃度により、それぞれ色合いが異なって見えることを利用し、色を塗り分けることで距離感を示そうとする手法。
- ^ プルシアン・ブルーはドイツで発明された人工顔料。
- ^ 清代の中国人画家で1731年(享保16年)に来日した沈南蘋の名に由来する画派。当時主流だった狩野派に対抗する一大勢力となり、伊藤若冲や円山応挙、司馬江漢、田能村竹田、渡辺崋山など、江戸時代中期以降の日本画家に大きな影響を与えたといわれる。
- ^ 1770年代の当時としては、あまり類例のない抜擢である。『北家日記』にも「格別の御吟味」と記している。源内と知り合う前の直武は角館でさえ無名の青年であった。
- ^ 直武が『解体新書』挿図の下絵を描くに至った詳細な経緯は不明であるが、杉田玄白と平賀源内が親しかったことにより直武が担当することになったものとみられる。なお、養老孟司は、直武の挿図は原図とはまったく技法が異なっており、「創造的模倣」であったとして、江戸時代の解剖図はこれにより、一応の近代的水準に達したと評価している[4]。
- ^ オランダよりもたらされた画集で平賀源内が1768年に入手、所蔵していた。
- ^ 重賢も博物趣味をもつ文人大名であった。スケッチ『昆虫蛋化図』『虫類生写』(ともに財団法人永青文庫所蔵)を残している。
- ^ シーボルトとも交流のあった蘭癖大名。墨竹図「佐竹曙山賛」が秋田市立千秋美術館にのこる。また、1779年、重豪は曙山宛の書簡のなかで「御家来阿蘭陀画」受領の件について、礼をしたためている。2人のあいだには、曙山の娘と重豪の嫡男島津斉宣を縁組みさせるなどの交流があった。
- ^ 1779年3月、オランダ商館長アレント・ウィレム・フェイトは、将軍徳川家治にヒクイドリを献上しているが、このヒクイドリの姿は曙山『写生帖』に「駝鳥」という名で掲載されている。
出典
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