神山復生病院の設立
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「ジェルマン・レジェ・テストウィード」の記事における「神山復生病院の設立」の解説
テストウィード神父は、1880年(明治13年)より西関東・東海道地方の宣教を担当し、その範囲は愛知・岐阜県に及んだ。1884年(明治17年)には静岡市鷹匠町に布教所を設立、ここを拠点に藤枝・浜松方面をも巡回し、翌1885年(明治18年)には沼津にも布教所を設立した。 この巡回伝道の旅行中、足柄街道筋の水車小屋で30歳ぐらいの盲目の女性ハンセン病患者と出会い、療養所の設立を決意する。1883年(明治16年)の春、御殿場の鮎沢村(現在の御殿場市新橋)に家屋を借用して6名の患者を収容する。薬はモロカイ島でハンセン病の患者を世話していた司祭のヨセフ・デ・ブーステルから調達した。またブーステルの紹介でハンセン病治療医の後藤昌直と知り合いとなり、新薬を分けてもらった。 1888年(明治21年)、静岡県駿東郡富士岡村字神山(現在の御殿場市)に土地を購入し、翌1889年(明治22年)5月に新たな診療所を設立し、患者20名を収容する。彼は上司に診療所の設立許可を願うにあたり「らい患者が現世の苦しみによって永遠の生命を得ることができたら苦しみも又幸せとなるでしょう。そのために病院を建て、そのことを教えたいと思います。こうして彼らは肉体の救いと共に魂のたすかりを得ると思います」と説明した。彼はこの診療所に「主における復活」の意味で「神山復生病院」と命名、これが日本最初のハンセン病療養所となった。 詳細は「神山復生病院」を参照
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